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第52隻


「緊張します……」

「そう身構えなくて大丈夫だ。……今日はきちんと話せるといいんだが……」


 アンカー辺境伯家の屋敷。その別邸。

 堅牢な屋敷には似つかないほど豪奢な扉の前に、二人は立っていた。

 励ますように肩に手を置くケヴィンに支えられ、ナタリーは深呼吸をする。

 胸の前で握り合わせた左手の薬指には、サファイヤの指輪がはまっている。

 結婚前に、ナタリーにはどうしてもやらなければならないことがあった。

 そのために、ケヴィンからのプロポーズを受けた翌日、別邸にやって来たのだ。


「私、お義母様に気に入っていただけるかしら」

「どうだろう……。いや、君を気に入らないということではない。お母様がきちんと理解できるか……。お母様は私のことも時折分からないことがある。何も聞こえていないように、ぼおっと外を眺めていることが多いからな」


 ケヴィンの母であるミュゼットは、夫を失ってから心身を壊し、部屋に引き篭もりがちになった。

 それでもかつては幼くして家門を背負うことになったケヴィンを支えるよう尽力していた。

 しかしケヴィンが顔に大きな傷を作ったことで、精神的な負担からか更に体調を崩してしまう。

 そして数年前から、認知に問題を抱えるようになった。

 元々人付き合いが好きではなく、多くの人と関わることにストレスを感じるミュゼットのため、それ以来、最低限の使用人とケヴィン以外、ミュゼットの住まう別邸には誰も足を踏み入れなくなったのだ。

 ナタリーが屋敷に来た当初、ユリウスからミュゼットに会うことを止められたのは、そういった事情からだった。


 けれど、ナタリーがケヴィンと結婚するのであれば、話は別だ。

 ナタリーはミュゼットの部屋の扉を前に、自分でも驚くほどに緊張していた。


「大奥様。ケヴィン様と婚約者のナタリー様がいらっしゃいました」


 別邸の管理をしているメイドが声をかけ、扉が開かれる。

 思わずナタリーは、ぎゅっと拳を握りしめた。


 部屋の中は、想像以上に広かった。

 綺麗に掃除が行き届き、窓辺にはドライフラワーの入った籠がいくつも置かれている。

 何故生花でないのかといえば、万一にもミュゼットが怪我をしないようにと、落として割れるようなものは部屋に置いていないからだ。

 そんな部屋を見るだけで、ケヴィンがいかにミュゼットに心配りをしているかが窺える。


 くだんの人は、部屋の右側に置かれたベッドに居た。

 上体を起こし、窓の外を眺めている。

 ちょうど部屋の入り口から、顔を背けるような形だ。

 ナタリーたちが入って来たことに気付いていないのか、微動だにしない。


「お母様、紹介します。私の婚約者の、ナタリー・ファンネル嬢です」


 ケヴィンはベットの側で跪き、ミュゼットの手を取りながら静かに言った。

 ナタリーは緊張しながらも、同じように膝を突いて頭を下げる。


「初めまして。ナタリー・ファンネルです」


 ケヴィンに促され、そっとミュゼットの手の甲に触れる。

 すると、ミュゼットはゆっくりと首を動かし、ぼんやりとナタリーを見つめた。


「ご挨拶が遅くなり、大変申し訳ございません。お加減はいかがですか?」


 笑顔を浮かべ、柔らかい声を出すよう努めながら、ナタリーは語りかけた。

 ミュゼットは何も答えず、ふっと視線を下げる。

 その視線の先には、ナタリーの指に輝く、サファイヤの指輪があった。


「アンカー伯爵夫人に伝わるこの指輪を、彼女に贈りました。彼女と結婚するつもりです」


 ケヴィンが結婚相手をミュゼットに紹介するのは、これが初めてだ。

 前妻であるヘレナの時には、ヘレナ自身がとても落ち着いて話せる状況になく、紹介することが出来なかったのだ。

 それどころか、ヘレナが受け取るのを拒否したために、サファイヤの指輪を渡すことすら出来なかった。


 ケヴィンは不安で落ち着かない心を、どうにか宥めようと必死だった。

 万一、ミュゼットがナタリーを傷付けるようなことを言ったらと、そう心配していたからだ。

 ミュゼットは、自分の夫が生きており、ケヴィンのことをまだ幼い子供だと思い込んでいることが多い。

 もしかすると、自分の指輪を盗まれたと騒ぐかもしれない。

 ケヴィンが家督を継いですぐ、「未来の伯爵夫人のために」と自ら指輪を外したことをすっかり忘れて。

 ナタリーの指にはまっているサファイヤの指輪をじっと見つめているミュゼットを、ケヴィンは緊張した面持ちで眺めた。


「お母様。これは……」

「まあ、綺麗だこと」


 ケヴィンの言葉を遮って、ミュゼットは感嘆の声を上げた。

 そしてナタリーの手をそっと取り、まるで愛しいものを見つめるように微笑んだ。


「よく似合っているわ」


 ただ一言そう言うと、にこにこと顔を綻ばせたまま、両手でナタリーの手を包む。

 どういう訳か、なかなかナタリーの手を離そうとしない。

 そんなミュゼットに、ナタリーは困惑しながらも、何故か泣きそうになった。

 ナタリーを嫁として認めた訳でも、歓迎した訳でもない。

 それでも、ミュゼットに受け入れられたような気がした。


「お義母様。これからどうぞよろしくお願いいたします……」


 そう告げたナタリーの声は、心なしか震えていたのだった。




 ミュゼットに挨拶を済ませたナタリーは、結婚式の準備で俄然忙しくなった。

 と言うのも、2か月後に行われる運河の完成記念式典の日に、結婚式を挙げようと決めたからだ。

 早く結婚したいという思いもあるが、それ以上にレセップス運河の今後の安定した運営に対するアピールになるからだ。

 レセップス運河はただの運河とは違う。通航料を徴収し、閘門の操作が必要となる運河なのだ。

 その運営が健全になされないとなれば、商会が利用を躊躇う可能性は大いにある。

 要は不当に通航料を釣り上げられることがなく、通航の安全性が担保されている必要があるということだ。

 信頼の高いファンネル商会の後ろ盾と、スラスター騎士団の防衛力があれば、盤石な体制と言えるだろう。

 だが、万一ナタリーとケヴィンが別れるようなことになれば、その体制が危ぶまれる。

 元々、二人が別れてもファンネル商会の系列会社としてレセップス運河運営会社を立ち上げ、スラスター騎士団と防衛協定を結ぶことで、婚約を解消しても運河の運営体制に影響はないと言うつもりではあった。

 だが二人が結婚するとなれば、話はもっと単純だ。

 結婚式で二人の関係をアピールし、今後も盤石な体制が続くと世間に公表する予定である。

 運河運営会社を立ち上げるのは変わらないが、より世間的な信用度は高くなるだろう。


 ただでさえ記念式典の準備に追われる中、ナタリーは目がまわるほどの忙しさだ。

 いくら運河のアピールの為に自分たちの結婚式を利用すると言っても、妥協するつもりはない。

 ナタリーとて一人の女性だ。結婚式に夢がない訳ではない。

 ドレスや招待状、会場の準備で、最近はベッドに入ると同時に夢の中に落ちている。

 当然、ケヴィンやユリウスも目まぐるしく働いており、ほぼ一日中私的な会話は皆無の状態だった。


 そんな時だ。

 キールがナタリーを訪ねて来たのは。


「おーおー相変わらず忙しそうだなお嬢ちゃんは」

「そのお嬢ちゃんって呼ぶのやめてちょうだい。もうすぐ既婚者になるんだから」

「お嬢ちゃんはお嬢ちゃんだろ。いつまで経ってもさ」


 派手な金髪に獰猛な獣に似た瞳。

 かつてミゲルの不貞を伝えた時と同じ派手な姿で、キールはやってきた。

 我が物顔で執務室のソファーで足を組み、背もたれに腕を預けている。

 彼もしくは彼女の本当の年齢は誰にも分からないが、年上には違いないだろうと、ナタリーは漠然と思った。


「ところで、今日はどうしたの? この間依頼したウェスティン商会の新造船のことかしら。わざわざ来てくれるほどのこともなかったのに」

「ああそれはこっち。後で見といて」


 キールは放り投げるように報告書をデスクに置く。

 この姿の時は、本当に粗野だとナタリーは内心嘆息した。


「で、本題はこっち」


 そう言ってキールは、デスクの上に手のひら大の小瓶を置いた。

 報告書とは異なり、幾分丁寧な仕草だ。

 小瓶の中には、やけに鮮やかな緑色の液体が入っている。


「これは? 薬品かしら?」

「ああ。前に俺が言った『口なしマーヴ』の話、覚えてるか?」


 西の国に伝わる怪談話。

 とある薬品で口をなくしたマーヴが、夜な夜な人の口を奪うという、あの話。


「まさか……これが!?」

「その通り。これが噂の薬品だ」


 口を溶かし塞いでしまったという薬品が、本当に実在していたということか。

 にわかには信じられず、ナタリーは訝しげに小瓶を手に取った。

 それから、はたと疑問が浮かんだ。


「あなた、いつの間に西の国に行っていたの?」


 西の国に行くには船で数か月はかかる。

 しかしここ数か月、キールには先ほど受け取った報告書の他にも、いくつか依頼を出していたはずだ。

 もちろん、きちんと成果を受け取っていた。

 確かに、キールがこうしてナタリーの前に顔を出すのは久しぶりだ。

 それでも報告書だけ送ってくることはこれまでにもあったし、特に気にしていなかったのだが……。


「それは企業秘密ってやつだ」

「本当に謎ね……」


 やはり『キール』は複数人でやっているのだろうか。

 そんな考えが頭をよぎり、いや、それよりも重要なのはいま目の前のこの薬品だと、ナタリーは頭を切り替える。


「この薬品、本当に効果があるの?」

「まあ、実際そこまで強力な効能がある訳じゃない。けどある程度皮膚の接合効果があるのは確かだ。試してみたからな」

「えっ自分で!?」


 どこか怪我でもしていたのだろうかとキールの体を見回すと、彼は声を立てて笑った。


「まあな。これだけ姿を変えてりゃ色々ある訳よ。噂ほど劇的なもんじゃなかったが、確かに幾分か塞がった。ほとんど量が作れないらしく流通はしてねえが、現地じゃ薬として使ってるようだ。ごく限られた地域だけでだがな」

「そうなの……」


 薬というよりは毒と言った方が近いような見た目だが、キールが実験したというのなら効果はあるのだろう。

 いったい体のどこで試したのかと疑問ではあるが、大事なのはその効果だ。

 現地で薬として使われているのなら、重大な副作用もないということだろうか。

 キールにも特段変わったところはないようだ。

 劇的な効果はないとしても、試してみる価値はある。

 これでケヴィンの傷が、少しでも良くなれば。

 ナタリーは期待を込めるように、小瓶をぎゅっと抱きしめた。


「あーあーそんな顔してさ。そんなに辺境伯が大事かね。ま、俺からの結婚祝いってことで、お代は安くしとくよ。流石にタダにはできねえけど」

「ありがとうキール……。本当にありがとう……」


 思わず涙がこぼれそうになったナタリーをどこか温かい瞳で見つめると、キールはおもむろに窓へと向かった。


「それじゃ俺はこれで。あんたの愛しの旦那様がもうすぐ来るぜ。男の嫉妬は怖えからな。また来るよ」


 一言そう捨て置くと、キールはひらりと窓から去っていった。

 と同時に扉がノックされ、本当にケヴィンが部屋に入ってくる。


「ナタリー。結婚式の会場の件だが……!?」


 書類に目を落としながら入ってきたケヴィンは、思わず書類を手から落としてしまった。

 ナタリーが、勢いよく抱きついたから。


「どうした!?」

「っケヴィン様……!!」


 ナタリーの声は震えていた。

 けれど悲しみはなく、喜びに打ち震えるような声だった。

 ケヴィンは何が何だか分からず、ただナタリーに抱きしめられるままであった。

明日、最終話とエピローグを更新して完結します。

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