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第51隻

 水面が風に揺らめいている。

 つい最近までただの広大な穴でしかなかった場所に、水が満ち満ちている。

 遠くに、ファンネル商会の蒸気船が見えた。

 もうすぐ船は、閘門を過ぎて目の前まで航行してくることだろう。

 ナタリーは、胸が震えるのを感じた。

 運河建設工事の着工から、およそ2年。

 ついに、レセップス運河が完成したのだった。



 裁判から1週間後。

 皇帝主導による大々的な行政省の捜査が行われた。

 結果、軍事局のみならず、財務局に異動した元ボラード伯爵の部下たちが、文書の改竄に関わっていたことが判明する。

 取り調べにより、過去軍事局の組織的な不正に関わっていた証拠をボラード伯爵に握られていたため、仕方なく指示に従ったと彼らは供述した。

 裁判の直前に亡くなった、魔獣の死骸処理作業員の件を始め、完全に明かされなかったことも多々ある。

 皇帝主導で行われた捜査であれば、当然《《明らかに出来ない》》事情もある。

 致し方なしという所だろう。


 後日改めて行われた裁判により、ボラード伯爵には極刑が下された。

 度重なる不正、また魔獣を使い帝国民を危険に晒したというのが建前であるが、結局、皇帝が保身の為に下した結論であると言えるだろう。

 死人に口なしということだ。

 皮肉なことに、死者が出なかったとして極刑に反対したのは、ボラード伯爵が必死に陥れようとしていた、ドルフィン侯爵だけであった。


 魔獣事件の共犯として罪に問われたベティにも、極刑が下された。

 彼女がケヴィンの前妻であるヘレナの死に関わっていたかどうか、それは証拠もなく、はっきりとさせることが出来なかった。

 それでも彼女に極刑が降ったのは、魔獣事件に関わった事実そのものよりも、平民でありながら、ボラード伯爵や皇帝に対する行き過ぎた発言が問題視された結果であった。


 一方、サラについては、ボラード伯爵に脅されていたこと、また被害を最小限に抑えるよう尽力したことが考慮され、命は助かった。

 しかし、一生出ることの許されない、西の修道院へと送られることが決まった。

 罪人となった貴族の女性が送られることで有名な場所で、自由はなく、死ぬまで質素な生活を送ることになる。

 それでも、心持ち次第では、慎ましくも穏やかに過ごせることだろう。


 サラの処遇に関しては、誰よりもフィリップが情状酌量を訴えたことで有名だ。

 後にミゲルが語ったことによれば、フィリップが証言台に立つことを決めたのは、サラの為だという。

「このままではサラが全ての罪を被り、命も危うい」というミゲルの言葉に、覚悟を決めたらしい。

 フィリップのそれが愛なのか情なのか、はたまた罪悪感なのかは本人にしか分からない。

 しかしその後、女性関係の噂がぴたりと止んだのを見るに、フィリップにも何かしら、サラへの想いがあったのではないかとナタリーは思った。


 そしてそれらの判決を下した、皇帝であるが。

 裁判から半年後のある日、政務中に突如倒れ、そのまま帰らぬ人となった。

 それまで健康で持病などもなく、あまりにも唐突な最期であった。

 当初は毒による暗殺が疑われたが、調査の結果、何も見つからなかったのだという。

 皇帝の本性を知るものは皆、「天罰が降った」と噂した。

 代わりに皇帝の座に就いた若い皇太子は、父とは異なり、清廉な人物だと言われている。

 いわゆる反面教師だということだろうか。

 何にせよ、新皇帝の治世は、これまでと違ったものになるであろう。



「ついに、ここまで来たな」

「ええ。まさか、2年と経たずにこんな光景が見られるなんて、思いもしませんでした」


 水の満ちた運河を眺めながら、ナタリーとケヴィンは肩を寄せ合い、真っ直ぐに水面を眺めていた。


 ナタリーが運河の構想を思いついてからおよそ3年。

 つまり、ナタリーがケヴィンと出会ってから3年の月日が流れた。

 あまりにたくさんのことがあった。

 けれど、全てを一つ一つ、2人で乗り越えてここまで来たのだ。


「ありがとう。全て君のおかげだ」

「いいえ。ケヴィン様が受け入れて下さったからです。それに感謝するのはまだ早いですわ。大事なのは、これからなんですから」


 運河は完成した。

 けれど、使われなければ意味がない。

 既に他国を含め、商船を持つ商会にはレセップス運河を売り込んでいる。

 多くの商会から色良い返事を貰ってはいるが、実際どうなるかは、まだ分からない。

 周辺施設はまだ整備中だ。

 だがギシャール村の若者を中心に、船員の休泊所の運営が決まっている。

 建物の竣工ももうすぐだ。

 全てはこれから。

 これから、ようやく全てが始まる。



「……ナタリー。運河が完成したら、ずっと言おうと思っていたことがある」


 感慨深く運河を眺めていたナタリーに、どこか緊張した面持ちのケヴィンが言った。

 そしておもむろに、ナタリーの前に跪く。


「ちょ、ちょっとケヴィン様! お願いです立ってください!」


 ナタリーが慌てて周囲を見回せば、少し離れたところにナミルとユリウスが見えた。

 ケヴィンが何故そんなことをするのか分からず、二人に助けを求めて視線を送るも、何故かニヤニヤと笑いながら首を振られてしまった。

 ナタリーは混乱しながら、ケヴィンを立たせようと肩に手を置く。

 しかし、ケヴィンが懐から出したものを見て、思わず固まった。


「私と、結婚してくれないか」


 真剣な、それでいて緊張した声。

 そのケヴィンの手には、美しいサファイヤのはまった指輪があった。

 ナタリーは、以前ユリウスに聞いた話を思い出す。

 アンカー伯爵夫人が代々身につけてきた、サファイヤの指輪。

 小国だった時代から語り継がれてきた由緒ある指輪。

 それはケヴィンが本気であるということを、如実に語っていた。


「ケヴィン様……本当に……?」


 ナタリーはとても信じられなかった。

 期待はしていた。願ってもいた。

 けれど二人の始まりは、所詮契約だ。

 3年の月日の中で信頼関係は築けたと自負していても、それは愛だの恋だのといったものとは、別物だと思っていたから。

 いや、ナタリーはそう自分に言い聞かせてきたのであった。

 ナタリーがケヴィンを愛していることを自覚してもなお、愛されている自信はなかった。

 ただでさえケヴィンは感情表現が豊かではないし、ましてや前妻のこともある。

 自分のことをただのビジネスパートナーだと思っているに違いないと、そう思っていたのだ。

 そうでないと、溢れる思いを抑えることが出来なかったから。


 ケヴィンとて、自信はなかった。

 ナタリーはアンカー辺境伯領のために様々なことをしてくれたが、それが自分の為ではないことはよく分かっているつもりだった。

 ナタリーは事業自体を楽しんでいる風があるし、全ては厳しい土地で暮らす領民たちに豊かな生活をさせる為であると。

 もちろん、領民たちへの思いはケヴィンも同じだ。

 けれど、いつしかケヴィンは自分自身のために運河の完成を心待ちにしていた。

 運河が完成すれば、ナタリーに求婚しても許されるような気がしたから。

 求婚を断られるかもしれない。

 ナタリーはこんな怪物を愛せないかもしれないし、きっかけとなったミゲルは心を入れ替えたのだから元の鞘に収まるかもしれない。

 そうケヴィンは考え、臆病になった。

 けれど、ナタリーを手放したくないと、強く思った。

 だから、今日。

 たとえ断られることになろうとも、思いだけは告げようと、決意してここに来たのだった。


「愛している。私と本当の夫婦になってほしい。……その……だめだろうか」

「っ……私こそ、愛しています。どうぞよろしくお願いします……っ!」


 ぽろぽろと涙を流しながら、ナタリーは声を詰まらせつつ答えた。

 自分の意思とは関係なく、後から後から涙が溢れてくる。

 視界が歪み、ケヴィンの表情が見えない。

 けれど。

 どちらにせよ、ケヴィンの顔は見えなかっただろう。

 強く、ケヴィンに抱きしめられたから。


「ありがとう……。誰よりも幸せにする」

「はい……はい……一緒に幸せになりましょう……!」


 お互いがお互いを抱きしめ合う。

 二人が本当の意味で、お互いの心に触れた瞬間だった。



「ようやくだな」

「長かったですね。見ているこっちがじりじりしましたよ」


 遠くから二人の様子を眺めながら、ナミルとユリウスは笑顔をこぼした。

 二人がとっくに愛し合っていることなど、誰の目にも明らかだった。

 知らぬは本人たちだけ。


「これからは未来の奥様でなく、奥様と呼ばなきゃな」

「私もナタリー様と呼ぶのはやめなければいけませんね」


 二人だけの世界にいるナタリーとケヴィンを残し、ナミルとユリウスは、そっとその場を離れたのであった。


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