最終話 本当の愛
「あっつー。やってらんねーっつの」
昼休み。
鍋花が中庭のベンチに腰掛け、傷がないこと以外に何の取柄もない、醜い生脚を晒している。
そしてそれを見せつけるかの如く、うちわでスカートを仰いでいた。
「ギャッハハハ!!!」
そして品のない笑い方で、何が面白いのか、彼女の取り巻きたちも囃し立てる。
気になった僕は、あいつらの視線の先を見る。すると―――
そこには1人、孤独に弁当を食べている、金髪の少女の姿があった。
あの悲劇の大運動会が終わり、そして夏休みが過ぎた。
クラスが異なることもあり、僕は金郷さんや黒垣さんにうまく声を掛けることもできず、あの後の彼女たちの境遇がどうなったのかは知らない。
しかし、今のこの状況を見れば、少しも好転していない―――いや、むしろ悪化していることが見て取れる。
そして、それは彼女たちの立場だけではなく―――
今年は9月となってもずっと暑いままで、夏の終わりを少しも感じさせてくれない。
なのに金郷さんは、制服のスカートから伸びる脚を、ニーソックスで包んでいた。
彼女の細い太股がニーハイで強調される姿は、まるで大人っぽく背伸びをしているかのようで可愛らしく、金郷さんに似合わないはずもない。
しかし、そのようなスタイルとなった理由を考えると―――思い当たる節しかなくて、胸が痛む。
彼女の脚は、きっと治っていない。
そして、それだけでなく―――
あの大運動会の後、金郷さんは美しかった金髪をばっさり。
切り落としてしまった……
泥にまみれたグラウンドに押し付けられ、美しさを損なった髪は、きっと元には戻らなかったのだろう。
あのトレードマークだったツーサイドアップの金髪を失った金郷さんを最初に見たときの、僕のショックは計り知れないほどに大きなものだった。
自分でもこんなにダメージを受けるとは思っていなくて、暫くご飯もまともに喉を通らなかったくらいだ。
もちろん金郷さんはショートヘアでも可愛いし、ニーソックスも似合ってる。
だけど、僕は……
彼女がそのような姿にならざるを得なくなったという事実が悲しい。
そして、そのように意図的に仕向けた、頑張っていた金郷さんのことを転ばせた、鍋花のことが憎くて堪らなかった。
僕は、モブだ。
たとえどのような感情を抱いていたとしても、決してそれを相手に伝えてはいけない。
なぜなら、その相手とは絶対に、結ばれることはないのだから。
だが、今の金郷さんを見ていると、放っておくことの方が罪な気がしてならない。
もしかすると、それは自分の思い上がりなのかもしれない。
しかし、彼女と会話をしたあの昨年の夏―――あの火照った彼女の顔が、僕は忘れられないのだった。
「―――おかしくなりそう」
確かに、彼女はそう呟いた。
それは僕に対する拒絶ではなく―――
そんなことを考えていた僕は、いつの間にか背後に迫っていた気配に、気づくのが遅れた。
「……青野くん」
振り返ると、そこには黒髪ショートでスタイル抜群の美少女が立っていた。
♢♢♢
僕は彼女に促されるようにして、鍋花たちが去っていった後のベンチに腰を掛けた。
推しの相手ではないとはいえ、最上級の美少女が目と鼻の先にいるとなれば、流石に落ち着かない。
そんなこともあり何を話せばよいかわ分からずにいた僕だったが、そんな僕の内心を知ってか知らずか、先に口を割ったのは彼女の方だった。
「青野くん、金郷さんに声を掛けてあげてよ。……どうしてそれだけのことが、貴方にはできないの?」
一瞬、はっとする。
しかし、一呼吸置くと、僕は黒垣さんがする、いつもの他人想いなだけの発言に多少の苛立ちを覚えた。
「……うるさいな」
思わず冷たい言葉で返してしまう。
違う。
僕は、そんなことを言いたいわけじゃないのに。
黒垣さんは、寂しそうな表情を浮かべた。
何かを口にしようか、迷っている。そんな様子が見て取れる。
それに僕は耐えられず、自分の方から口を開こうと決意する。
しかし―――僕が言いかけた言葉を察してか、「私じゃダメなの、私が金郷さんに言葉を掛けても意味はない……」と、話そうとした言葉はすぐに遮られてしまった。
気まずくなり、僕は視線を下に落とす。
彼女の小さな手は、金郷さん同様にニーソックスに隠されている膝の上にちょこんと置かれていた。
どうして彼女も、ニーソックスになってしまったのだろう。
理由が気になってしまうが、真実は知りたくない。
膝の上の黒垣さんの手は僅かに、震えている。
僕は黙って、彼女が話し始めるのを待つことにした。
やがて、暫くして。
もう一度、黒垣さんは僕に問いかけてきた。
だけど、その内容は―――
あまりに突飛で、僕はその真意をくみ取れずに、思わず固まってしまった。
「青野くんは、ロングヘアで、脚の綺麗な子が好みなんでしょう?」
黙り込んでしまった僕に、図星なのね、と彼女はつけ加えた。
そして、黒垣さんはまるで小悪魔のように僕の目をじっと見つめながら、こう言った。
「このまま、じっと見ていて」
―――黒垣さんの手が、自身の太股に添えられる。
そして、彼女の脚を包むニーソックスに手を掛け、そのまま―――
すーっと、下に降ろしていった。
僕は、そんな彼女の行動に、言われなくても視線が釘付けになってしまう。
そして、膝のあたりまで来て、僕は……
受け入れたくなかった事実を、目の当たりにしてしまう。
黒垣さんの膝には、見るも無残な傷痕が、しっかりと刻み込まれていたのだ。
はっきりと黒ずんだ、痛々しい痣。
普段はガーゼで覆っているけどね、とつけ加えつつも、彼女は病院に行ったものの、痕は残ってしまうかもしれないと医者に言われたことを告白した。
「それでも、私は貴方に見てほしくて」
黒垣さんは僕のことを真っすぐ見つめながら、更に僕の手をぎゅっと握ってきた。
少し傷んだ手のひらの感触……おそらくこれも、大運動会の後遺症だろう。それでも、それが黒垣さんのものだと思うと、心臓の鼓動が速くなっていく。
肩の上で、短くなった黒髪の毛先がふわりと揺れると、シャンプーの甘い匂いがした。
「私、青野くん。貴方のことが好きよ」
僕は、黒垣さんの予想外の告白に、動揺を隠しきれなかった。
感情を抑えることは、僕の得意分野であったはずだが……
これほどまでに心が揺さぶられたことは、かつてあっただろうか。
黒垣さんが、いつもは他人のことを最優先する彼女が、まさか自分の気持ちを真っすぐに伝えてくるなんて思っていなくて。
そしてその相手が僕だなんて信じられなくて、二重の意味で困惑してしまう。
しかし、そんな僕をよそに、彼女は言葉を紡いでいく。
「私は、髪が長いからって理由だけで貴方に好まれたくない。私の髪が激しく傷んでしまったというのもあるけど……あの子が髪をばっさり切ったのを見て、私も同じようにしたの」
彼女は空いている方の左手で、少しだけ毛先を弄る仕草を見せる。
「私は貴方のことを何だって知ってる。だって私は小さい頃からのいいなず……ううん、それは今は関係なくて、でも、だから貴方が、1年の頃からずっと、金郷さんに惹かれていることも、ずっと知ってたの」
金郷さんへの好意に気づかれていたことは、あの昨年の出来事で薄々感じてはいたが、改めて彼女の口から聞くと、恥ずかしさで胸がいっぱいになる。
「……私は、貴方のことを昔から知っていて、色々と調べて、ズルをした。貴方好みの容姿の女の子になれるように、努力することができた。でも、あの子は違った。初めから私たちは、少しもフェアじゃなかったの」
黒垣さんの声が、少しだけ震え始めた。
「だから私は貴方と、そしてあの子の気持ちを知ったとき、どうしようもない敗北感を覚えて。なのに貴方たちは、一向に……」
そこまで話すと、彼女ははっとして口をつぐんだ。
正直、ここまでの話には色々ありすぎて、僕の頭の中はうまく整理がついていない。
だけど、彼女は今までの話は忘れてくれといわんばかりに、僕の手をぎゅっと握りなおして、まるで泣き叫ぶように訴えてきた。
「……こんな私でも、こんな脚でも私のことを綺麗だって、可愛いって思ってくれる?」
それは、黒垣さんの心の叫びだった。
1人の女の子として、好きな人に愛してほしいという想い。
僕は、昨年のあの日に聞いた田辺先生の話を、思い出していた。
田辺先生の身に起きたことが、一年越しで、黒垣さんの身にも起こってしまった。
彼女はおそらく、この傷痕が一生モノになってしまうことを受け入れている。
だがそのことが、今まで完璧であった彼女に初めてのコンプレックスを生み、彼女の心を苦しめていた。
―――そしてそれが、僕にはどうしようもなく可愛く映った。
よりにもよって、黒垣さんの一番の身体的美点が損なわれてしまったことには深いショックを抱いているが、それによって彼女に女の子らしい、いじらしい一面が芽生えたと思うと、僕は目の前にいる、かつて完璧だった美少女お嬢様に対して、愛おしさを抱いてしまった。
だから、僕は答える。
「……ああ。黒垣さんは、可愛い女の子だよ」
―――一瞬の、静寂。
しかしそれは、黒垣さんの叫び声によって壊された。
「……それを金郷さんにも言ってあげてよ!」
黒垣さんは、端正な顔を悲しいほどに歪ませて、唇を噛みしめながら、短くなった黒髪を揺らした。
「あの子、毎日のようにこっそり自分の膝を見つめては、悲しそうな顔をしているの。ほら、今だって……」
黒垣さんが指し示す先で、弁当箱を片付けた後に、おもむろに自身のニーソックスに手を掛けて覗き込む、金郷さんの姿を見てしまう。
そして、僕の胸がぎゅっと締め付けられるように、痛んだ。
孤独に耐えられず、自信も失った彼女には、かつての勝ち気でプライドに満ち溢れた姿はどこにもなく、今はただ諦めと悲しみに満ちていて、今すぐにでも消えてしまいそうだった。
僕は、反射的に立ち上がる。
だが―――
僕の左手は、黒垣さんの右手に、ぎゅっと握りしめられたままだった。
「……!」
黒くて大きな瞳が、涙に濡れて揺れながらも、しっかりと僕のことを捉えていた。
やめろ。やめてくれ。
黒垣さんは、意地悪なことをする。
僕に選択を迫らせる。
黒垣さんは、僕が金郷さんを直感的に選ぶことを分かっていて、その上で僕の手を握っていたのだ。
ここで僕が金郷さんを救おうとすれば、僕は黒垣さんのことを傷つける。
分かる。それくらい、僕にだって分かっていた。
だけど、僕は。
だから、僕は。
彼女の手を……
―――あの日、僕たちの青春の歯車は音を立てて動き始めた。
最後までお読みいただきありがとうございました




