第4話 治療の時間―――黒垣編
僕が近づくと、しかし黒垣さんは右手で僕を制した。
「……だめっ、青野くん、今は……」
一瞬、何故だろうと考えた僕だが、すぐにその理由に気づいてしまう。
「……金郷さんの、傍にいてあげて」
♢♢♢
僕は、転倒して絡み合い、うずくまっていた2人の元へと急いで駆け寄った。
2人とも同様にボロボロで、思わず顔を背けたくなるほどに痛々しく僕の目には映った。
だが、急いでいる僕を見て黒垣さんは、こう言ったのだ。
「私は大丈夫だから。青野くんは、早く金郷さんを保健室に連れて行って」
僕は、黒垣さんのこういうところが嫌いだ。
自分のことは放っておいて、他人のことを優先してしまう。
黒垣さんは間違いなく、メインヒロインになれる逸材だ。
誰から見ても美しくて、完璧なお嬢様。
それなのに、彼女の美点である優しさを、自己犠牲という形で利用してしまう。
そんな負けヒロインのような振舞いは、彼女には相応しくないのに。
黒垣さんを見ていると、嫌な気持ちになる。
まるで何かを諦めているような……
僕は黒垣さんとは何度か話をしたことがあるが、完璧な容姿と品格を兼ね備えていながら、時々僕に向けるあの寂しそうな目を見るたびに、苦しい気持ちにさせられる。
だから僕は……
♢♢♢
金郷さんを保健室から返すと同時に、僕は黒垣さんの手を取った。
「……んっ……!」
直後、黒垣さんは言葉にならない声を漏らし、そして手のひらに伝わった感触に、僕は思わず顔をしかめる。
「……ごめん」
不用意に掴んでしまった彼女の手のひらは、痛々しいほどに擦り切れていた。
少し考えれば分かることだ。
あれだけ酷い転び方を何度もしたのだから、彼女の柔らかくて小さな手にだって、痛々しい傷が刻まれていて当然だ。
慌てて手を引っ込めた僕に対し、しかし黒垣さんは手を伸ばして……それから少し、寂しそうに俯いてしまった。
「青野くんには……やっぱり届かないのね……」
―――そんなに痛かったのだろうか。
彼女の怪我の具合について考え込んでいた僕の耳には、彼女の呟きは届かなかった。
「黒垣さんも、乙女ね……はあ、ほんと、青野くんは罪なひと」
田辺先生は俯く黒垣さんの手当てをしながら、声を落としてため息をついた。
正直、田辺先生の言っていることは全く理解できないが……
ただ、直後の黒垣さんの言葉には、僕も心底がっかりした。
「……青野くん、その、金郷さんの怪我は……大丈夫だった?」
……この人は。
ああ、この人はどうしていつも、こうなんだろう。
金郷さんのことを見ていればいつもいつも、黒垣さんが自分のことを後回しにして、金郷さんを優先しようとしていることに気づいてしまう。
金郷さんの挑発に乗っかっては、そして彼女のことを挑発しては、いつも傷つくのは黒垣さんなのに。
だから、黒垣さんは引き立て役なんだよ。
ポニーテールを解き、烏の濡れ羽のように美しい黒髪ロングをいつもみたく下ろした彼女は、今だってメインヒロインに相応しい美しさにもかかわらず―――
だから、気がついたら僕は、思わず声を荒げていた。
「―――まずは自分の心配をしろよ!」
黒垣さんは、大きな目を丸くしていた。
それによって、自分が普段の冷静さを失っていたことに気づく。
感情を抑え込むのは得意なはずなのに、どうも黒垣さんの前では調子が狂う。
そんな僕の言葉に、黒垣さんは怯えたように肩を震わせると、そのまま俯いてしまった。
「だって貴方は、金郷さんのことを……」
驚かせてしまったのかと思い、反省していた僕だったが。
逆に黒垣さんの思いもしなかった言葉に、驚かされてしまう。
まさか……
黒垣さんは、僕の気持ちに気づいて……
―――恥ずかしい。
こんな僕が、金郷さんのことを想っているだなんて誰かに知られたら、恥ずかしくて死んでしまう。
それも、よりにもよって黒垣さんに……
頭の中がぐちゃぐちゃになる。
冷汗が出る。……そうだ。こんなときこそ、平常心だ。
平常心……
しかし、そんな僕の戸惑った様子に黒垣さんは全く気付くそぶりを見せず、ただそっと、こう呟いた。
「……どうしよう……」
と。
♢♢♢
「どうしよう……私のせいで、金郷さんに傷痕が残ってしまったら……」
黒垣さんはその大きな瞳に涙をいっぱいに浮かべながら、田辺先生の手当てを受けている。
そして……
「……もう、いいっ!」
黒垣さんは、田辺先生の手を振り払った。
それは金郷さんのように、傷口に染みる痛みに耐えられなかったからではなくて。
「こんな私なんて、傷物になってしまえばいいっ!」
黒垣さんの言葉は、まるで自分のことを否定するかのように響いた。
「ダメよっ!そんなこと言っちゃ!!!絶対にダメっ!!!!!」
何事かと思えば、今度は田辺先生の方が感情的になって、叫んでいた。
「ちゃんと治さないと……貴女、絶対に後悔するわ」
そしてそう呟くと、田辺先生は自身のロングスカートをゆっくりと……
ゆっくりと、たくし上げていった。
何が起こっているのか、一瞬気づくのが遅れた。
無意識のうちに僕の視線は、田辺先生の脚に釘付けになっていた。
そしてそこには田辺先生の細くて綺麗な生脚が……
ではなく、その両膝には、痛々しく―――黒ずんだ傷痕が刻まれていた。
「……私ね、この学校の卒業生なの」
田辺先生は語り出した。
「私、学生時代はこれでも結構人気があってね。3年生のときに、当時は投票制だった二人三脚のアンカーに選ばれて。絶対に勝つぞって、クラスメイトの期待に応えるぞって、張り切ってたんだけど。でも、結果は最下位。気合が空回りしちゃって、派手に転倒。―――もう言わなくても分かるでしょうけど、これはそのときの傷痕なの」
―――知らなかった。
田辺先生はまだ20代後半でスタイルも良く、男子生徒たちにも密かな人気があるが、いつもあまり若さを感じさせない地味なロングスカートやパンツスタイルを好み、折角の美脚を活かしきれていないと思っていたが……
まさか、こんな理由があったとは。
あまりの勿体なさに視界がくらみ、気がおかしくなりそうだ。
そんな僕をよそに、田辺先生は自嘲気味に黒垣さんへ語り続ける。
「私、大学生の頃に初めて彼氏ができてね。彼はすごく優しくて、カッコいい人で。それから暫くして、彼の家に誘われて、そういう雰囲気になって……」
まだ高校生である僕らの前で、仮にも先生である立場の人がしていい話なのかは疑問だが、男の性かな、つい聞き入ってしまう。
「それでね、初めて彼が私の脚を見て……そして、顔を背けたの」
そこで、田辺先生は俯いた。
当時のことを今でも鮮明に覚えていて、忘れられないといった様子で。
「結局その日、彼とはうまくできなくて。それから関係性も崩れて、あっさり別れることになっちゃって。彼は優しいから言葉にはしなかったけど、汚物を見るような目で見られることが、子供の頃から可愛いってちやほやされて育ってきた私にはとても耐えられなかった」
田辺先生にそんな悲しい過去が……
金郷さんを手当てしていた際に見せた、僅かな絶望の表情の意味を知り、その重みを嚙みしめる。
「あれから私は自分に自信が持てなくなって……おばさんみたいな色の服しか着るのが怖くなって、このままもうすぐ賞味期限切れよ」
どうやら、田辺先生は相当なコンプレックスをお持ちのようだ。
開いてはいけない扉を開いてしまったような……
僕は、しかしそんな田辺先生に同情しつつも、行為の際に思わず顔を背けてしまった元カレの気持ちが分からないでもないところに、苛立ちを覚える。
先ほど田辺先生の生脚に多少なりともがっかりしてしまったことに、胸が痛む。
女の人の価値なんて、そんなところで決まらないのに……
しかし、田辺先生のように、たとえ表面上は明るくても取り返しのつかない心の闇を抱えてしまっては、もう手遅れだろう。
だからもし、黒垣さん、そして金郷さんの生脚に傷痕が残ってしまったとしても……そんな心の傷までは残ってほしくない。
そう強く思った。
「……はい。ごめんなさい……私なんかどうでも良いなんて言って、ごめんなさい……」
それから黒垣さんは大人しく田辺先生の手当てを受けて……
少し恥ずかしそうにしながら、作り笑いを浮かべた。
「……私、青野くんに気に入ってもらえるような、綺麗な脚になるね」
―――黒垣さんは僕のことを、どれだけ知っているのだろう。




