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「大丈夫ですよ」
と千津子さんはキッチンまで手招きして、桐谷先輩と私を誘導した。そこにはキッチンの日当たりのいい小窓で丸くなって眠っている猫のワトソン君がいた。
「なんでこんな嘘を…」
桐谷先輩が千津子さんにそう聞くのも分かる。あの状況を止めるにしても嘘までついて桐谷父を追い出す必要があったのだろうか。
「忍様は本当にどうしようもない方なのです。人相も悪ければ、愛想も悪い、性格もよろしくない。そして、最も致命的な欠点は意地の張り方が物凄く下手な点です」
他人様の父を、千津子さんにしてみれば雇用主をボロクソに貶していいものなのだろうか。
「17年前もそうです。身重の芽衣子様に大人気ない文句を言い、言い争いで負かされそうになると『出て行け』なんて弾みでも言ってはいけない事を言ってしまって、お馬鹿さんとしか言いようがありません。ましてや、芽衣子様は黙って耐えるタイプの女性じゃないのくらい重々承知でしょうに…あんな…あんな事がなかったらもっと違う未来があったのに」
事情は分からないが、桐谷先輩の顔をそっと覗きこんだ。普段から表情の薄い顔がさらに分かりにくくなっていた。
「千津子さん、それは」
「芽衣子様が再婚されお子様もいる今、そんな事を言っても詮無い事ですが」
なにか鬱憤がとても溜まっていたらしく千津子さんは堰を切ったように話続ける。
「雪路様の事も、いつまで芽衣子様に張り合ってるつもりなのか。優しく慈しんだら芽衣子様に笑われるとでも思っているのなら本当に救いようがありませんね。素直に接すればいいだけの事を…。今まで雪路様がどれほど寂しい思いをしてきたのか、想像力の貧相な忍様には分からないのでしょうから再三申し上げていたのに全く聞く耳を持たないひどい強情張りです」
このまま一人ぼっちで孤独死まっしぐらです、と千津子さんはばっさりと言い捨てた。
「ですが私も長い付き合いになるので同情する気持ちもあります。だから大変行儀の悪い旦那様ではありますが、お二人とも忍様の事を分かって頂けますか」
千津子さんの問いにどう答えればいいのか分からなくて桐谷先輩の方を見ると、目が合った。先輩も困惑しているようだ。
千津子さんの言う事は嘘だと思わないが、私にはどうも現実味がない。そもそも数回ほどしか会ってないし。あの冷たい眼差しで言ったこと全てがあの人の本心ではないのかという考えが拭いきれない。あれがただの意地張りだけだとはやっぱり判断つかない。
「…わかりました。では、忍様の書斎に参りましょう」
まだ私と先輩がなにも答えてないのに、千津子さんはリビングの奥にある書斎に案内した。あまりにも躊躇いなく鍵を開けるので、なんだか逆に此方が中に入るのをためらう。…最終的に侵入したけど。
中はそれほど広くはなかったがシンプルだが立派なデスクと、背の高い本棚が壁一面にある割には圧迫感を感じない。書類や書籍の整理状況から桐谷父の几帳面さや潔癖さが感じ取れる。
「これも、これも」
そんな洗練された部屋を千津子さんは荒らしていく。いや、無計画に荒らしているわけではなく棚や引き出しの奥のような隠されて置かれているものを無理矢理引っ張り出しているので荒らされているように見えるのだ。
私は(大丈夫だろうか?こんな事して、千津子さん解雇されちゃったりしないだろうか?)と不安になってきた。
不安になりながらも、一冊の分厚いアルバムに目を遣った。開くと中には同じ男女が何枚も写っていた。男の方は桐谷父だ。若い時も苦み走った顰め面ですぐ分かった。隣には快活そうな知的美人がいた。
「母だ」
桐谷先輩が後ろで呟いた。やっぱりか。
「あ、ごめんなさい。勝手に…」
桐谷先輩に申し訳なく思ってアルバムを閉じようとすると、その間に腕を差し入れて桐谷先輩自身が頁を開いた。
意外にもそのイベントの折々で記念写真を撮っているようだ。撮影者は千津子さんだろうか。
どの写真も嫌々といった顔で桐谷父が写っているがその割にはいつも桐谷母の隣にいる。段々、桐谷父も満更でもなかったのが分かる。仲は険悪ではなかったのだろう、当時は。べったりラブラブという感じではないけど、お互いを信頼していい距離感を持っているといった感じだ。よく見ると写真は傷まないようにラミネート加工されてあり、アルバムは最近移し替えたらしく埃や手垢も少ない。
「……」
コメントしにくい。色んな可能性が出てきたが、完全に他人な私が気軽に口にするのは憚られる。
千津子さんの取り出したのはそういう類のものばかりだった。家族のにおいのするものだ。おそらく先輩のエコー写真とかもあった。日付の横に『発育良好 よく動く』と走り書きがある。男の人の字、多分これ…。
「あ」
桐谷先輩が小さく声をあげた。私も気になりその手にしているのを見やる。ジップロックに重ねて収納されているそれは手紙だ。宛名は英語。というかエアメールだった。
「僕からの手紙だ」
見てくれ、と広げた数枚の手紙には大きくて不安定な形の平仮名が並んでいる。
「下手くそだろう。当時は本当に日本語が出来なくて、なのにこんな手紙を父に寄越してたんだ。褒めて欲しくて」
手紙を読む事も顔を上げる事も出来なかった。桐谷先輩の声が震えていたから。感情の起伏が薄い桐谷先輩の、それは見てはいけない立ち入ってはいけないものだ。小さくて激しい嗚咽の存在も。
「す、捨てられ、て、いたのだと、思っていた。返信は、なかっ、たから…」
私がすべき対応はなんだろうか。桐谷先輩を慰める事か?良かったですね、と喜ぶべきか?桐谷父を呼んで連れてくる事か?桐谷先輩の親友だと言い張るならそうすべきだろう、きっと。
どれも私はしなかった。
私がしたのは、顔を上げないように部屋を出ただけだった。誰にも気付かれないように、桐谷家を出た。
感動のドキュメンタリーに、私は相応しくない。二度と桐谷家の敷居を跨げない。
なんだか寂しい。
いやとてつもなく寂しい。
私は最低だ。ほんとに最低だ。嫌な奴だ。
桐谷先輩が一人ぼっちで誰にも愛されてなければ良かった、なんて思っている。ずっと不器用で誰からも誤解されるかわいそうな先輩でいて欲しかった。
「愛して下さい」の本当の意味は【愛さないで】
「大切にしますよ」は【全部奪います】
「大丈夫です」は【助けて】
「一緒にいます」は【捨てて下さい】
全部嘘なのだ。桐谷先輩に言った事は全部。
先輩は私をいい子だと思っている。いい友達だと思っている。その期待に応え続けなければならない。
だからこれ以上は親しくしない。後はもう化けの皮が剥がれるだけだから。もう感情を揺さぶられたくないから。
桐谷先輩に、私以外なにもなければ良かったのに。私と同じ一人ぼっちだったら良かったのに。
自宅に帰ってから、桐谷先輩からの着信が何件か入ったし、メッセージも入っていたが今日はどれにも返信する気にならなかった。
『おかえり』
照明も消えた闇の中でゼロの声だけ響いた。




