106:
いったい何があったのか。
猿河氏からはずっと着信が来ている。でも、正直怖くて出れていない。
ここ一か月あまりの記憶がない間、犬塚君といつの間にか付き合っていることになっていた。猿河氏とはどうなっているのか非常に怖くて仕方がない。
犬塚君と付き合ったことが猿河氏に知られてしまったら、どんな目に遭わされるかわからない。もしくは、全く私に興味を無くすか。
私にはどちらも怖い。
猿河氏には何がどうやっても敵わない。彼が望めば、私なんてどうにもできる。私の全部を彼は知っている。弱味も嘘も。そんな人間に誰が勝てよう。
だからといって、猿河氏を切れはしないのだ。私は。
猿河氏との関係は、私にとって居心地が良い。まるでずっとぬるま湯に浸かっているように、安心できる。
私のことを正しく理解してくれるから。私が良い子じゃないと分かってるのに、側にいてくれる人間は有り難く貴重だ。そんな人、他にいない。
私はだからなんだかんだで猿河氏を手放せない。縁を切ってあげた方が、猿河氏はきっと楽になるって分かっているのに。
そんなこんなで色々複雑な気持ちがあり、猿河氏に連絡が取れない。ついでに言うと犬塚君ともあまり接触したくない。
都合良く、頭痛と熱が続いているので学校も休みがちだし。…学校、ちゃんと卒業できるのかな、私。
◆
「鬼丸さま、体調はどうですか?お友達が来てますよ」
メイドさんに呼ばれて、目がさめた。そうだった、今日から桐谷父が遠方に出張に行くらしく千津子さんも行っているので、別の人が派遣されて手伝いに来ているのだ。なんでも桐谷父は、放っておくとコーヒーと角砂糖しか摂らないし、自分でシャツにアイロンもかけられないほど家事オンチらしい。
夢か現実かよく分からないまま呼ばれて、自室のドアを開けた。もったいないことに素晴らしい部屋を与えられてしまっているのだ。
「久しぶり。どしたの、顔土色じゃん」
できれば、夢であってほしかった。
きらきらと深翠色の虹彩をもつその人に会う準備なんかしていなかった。
「猿河氏」
猿河氏に猛烈に怒られるかと思った。想像できないほど意地悪されて、こらしめられるかと思った。
「…よかった…生きてた。全然姿見せないから、どっか消えたかと、思っ…」
こんな風に体全体で抱きしめられるとは思ってなかった。続くはずだった言葉は嗚咽で、私は猿河氏のことを何も分かってなかったと痛感した。
猿河氏は、完璧なようでそんなことは全くない。
他人に無関心だと嘯く割に、人一倍寂しがりで。
自分に自信がある振りをしながら、傷つきやすくて脆く不安をいつも抱えている。
そんなこと、私は知っていたくせに。
「それはそれとして、なんで返事くれなかったの?恨むよ、普通に」
私は行儀悪く自室のベッドで寝ている。
猿河氏は何が面白いのか私の顔をじっと見たまま目も逸らしてくれない。白目はまだ赤くて、からかえもしない。
「いや、え、普通に調子悪くて…こんなんじゃ、その、アレも、してあげられないし…」
「お馬鹿」
猿河氏は、長い人差し指で私の眉間を押さえた。
「みくびんないでよ、僕はそんな性獣じゃないよ。君の身体だけ目的で君といるわけじゃない。居たらいたで、しちゃうけれども」
やっぱり性獣じゃないか…。
「前はともかく、哀ちゃんとは身体よりももっと深く結びついているつもりだけど、僕は」
「…」
「普通に好きで好きで、泣けてくるほど好きなんだけど。毎日でも毎秒でも一緒にいたいし、顔見たいし、連絡つかなきゃ不安だし、寝込んでいるって聞いたら心配だし」
「…」
「君の体が君が見せかけているほど頑丈じゃないのは知ってるから、もしかしたら死んじゃうかもとも冗談じゃなく思うよ」
私がいかに自分の都合しか考えていなかったか、反省しなければならない。考えてみれば、逆の立場だったら私は絶対傷つく。
「…ごめん、ほんとごめん」
「とりあえず生きてて、ちゃんと会ってくれたから今日は怒らない。許しはしないけど」
優しく頭撫でないでほしい。そんな目で私を見ないでほしい。無性に胸が詰まって苦しくなる。
猿河氏は面倒で厄介なやつだ。執念深くて意地悪くて、理想の王子様とは程遠い。
でも、私はそんな人の方が好きだ。愛しく思ってしまう。
物理的・現実的には、愛せなくても。運命が重なることはないとしても。
幸せになってほしい。決して誰にも愛されない人ではないのは、それこそ痛いほど分かっている。
なんか、しんみりと雰囲気になった。
緊張感が解け、明日から体調が良くなったら学校行ってみようとも思う。
「まぁ、多目に見てあげるよ。あと1年と二か月で、君の自由なんて僕の手の中に収まるんだから。この桐谷家の悠々自適な生活もせいぜい満喫しとけば?」
…?なに、いまボソッと不穏なこと言った?
「は?忘れたとは言わせないよ?来年の僕の誕生日、4月になったら籍入れるんでしょ?まだ先のことは哀ちゃんが連絡寄越さないから細かいとこ話せてないけど、君が学校辞めて僕ん家来るんだよ。覚えてるよね?勿論」
…え。
「うそだぁ…。猿河氏、エイプリルフールまだまだ先だよ?」
さっきまで機嫌良く垂れていた猿河氏の目尻が急に吊り上がったので、これは冗談でもなんでもないと気付いた。
「そっちこそ、笑えないんだけどそのジョーク。怖気付いたわけ?言っとくけど、君が言い出したんだよ?『もう一人にしないで、なんでもするから結婚して』って」
「え、え…嘘…」
頭の中、真っ白になってしまった。
「婚姻届も書いたんだけど。これ」
猿河氏が鞄から書類を取り出した。そこには確かに自分の字で私の名前と住所が書かれていた。自分の実印も押されていた。
冷や汗が止まらない。これはなんの悪夢。
「い、いや…おかしいよ。私たちまだ高校生だよ…?」
「いいんじゃない?君を今すぐ養うのはさすがに無理だけど、高校卒業したら他の誰も知らないとこで二人で暮らそう?僕、体力に自信あるし、この顔だっていくらでも売りようはあるし。それで君の人生が手に入るなら、なんだってやるよ」
笑ってよ、猿河氏。なんで真顔なの。
「君こそ笑いなよ。あんなに幸せそうに嬉しそうにしてたじゃん、僕のことを手に入れられて喜んでいたのに」
「か、考え直そう…?ね?お互い早まったんだよ…」
「早まる?え?意味分かんない。僕と出会ったのは運命だったって、僕一人だけを救ってくれるって言ったのは君だよ。僕だってそう思っているのに、それを気の迷いとか今更言う気?」
猿河氏の手から婚姻届を奪おうと手を伸ばしたが、手の届かない位置まであげられた。
「はぁ…。やっぱり哀ちゃんて、そうだよね。思わせぶりな事言って喜ばせておいて、急に掌返してくるんだもん。知ってたよ、やっぱり公的書類書かせて正解だった。悪いけど、取りやめてなんかあげないから。君にいくら恨まれても、逃してあげられない」
「猿河氏ぃ…」
「そんな顔しても無駄だよ。僕だって、君を繋ぎ止めるのに必死なんだから。分かってよ」
猿河氏は、それを冷徹に言い放って帰って行ってしまった。勿論、発言の撤回もしてくれない。
それから、10分たたないうちに桐谷先輩が帰ってきた。お手伝いさんから、猿河氏が来たという報告を受けたのだろうかすぐ私の部屋に来た。
「…ど、どうした?鬼丸君。猿河君に何かされたのか?」
私があまりにも呆然としているから、桐谷先輩がうろたえていた。私は相談するにも相談できず、先輩と一緒に部屋に入ってきた猫のワトソン君を布団の中で抱きしめた。ゴロゴロゴロ…と鳴る猫エンジンしか今の私の耳には受け入れられなかった。




