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105:

狂っているこの状況は。

私は、勝手知ったる犬塚家で正座して頭を抱えていた。前方には、犬塚はるか君がイライラした様子で私を睨んでくる。


ハグを御所望なのだ、この御仁は。


そういうキャラでしたっけ?あなた。絶対違う。

犬塚家に遊びに来て、仔チワワと闘犬みたいな黒澤さんはお昼寝したまま起きないし、騒ぐと申し訳ないから帰ろうとしたその矢先に言い出したのだ、犬塚君は。


「お前最近よそよそしくないか?なんかあったのか?」


と。


「何もない?そーかよ。じゃあ、いつもみたいにくっつきに来いよ」


くっつきに来い??いつもみたいに?はて……。

いやいやいや。私ではなく、犬塚君が何かあったの?という感じだ。そんなキャラじゃなかったじゃん、君。私が君を好きだと知って、めちゃくちゃ拒否したし振ったじゃないか。ほんとこの一か月なにあった?


ありえないと思うけど、マジで付き合ってるの?私達。嘘でしょ…。


「鬼丸」


だめだよ、そんなこと。


「こっち来い、寒いだろ。そこ」


両手を広げないでよ。お願いだから。そんなくりくりの目で見ないで。こんな汚くて醜い私を。


「哀」


コートのポケットが震えた。電話だ。助かった。

桐谷先輩からのLINE通話だった。犬塚君にやむを得なさをわかってもらうように慌てて出た。


『もしもし、取り込み中か?』


「いえ!大丈夫ですよ!?どうかしました?」


『休みの日にすまない。この前の会議の議事録を確認したいのだが、どこに綴っているか教えてくれないか?』


「ああ、書庫にあるんですけど…ちょっと待っててください!今から行くんで!」


ありがとうございます!と心の中で桐谷先輩に叫んだ。私は卑怯だから、逃げる。だって、どうしようもできない。


「そういう訳だから、ごめんちょっと学校行くね!じゃあ、ココアありがとう!」


「送ってく」


「いやいや!いいから!そろそろ夕ご飯の支度しなきゃでしょ?まだ明るいから大丈夫だよ!」


立ち上がった犬塚君を無理矢理制して逃げた。

緊張感をもって逃げたはずだった、しかし、急に懐に入ってくる犬塚君になす術はなかった。


「…不安になるだろ。ばかたれ、変な遠慮すんなよ」


顔が痛い。熱くて痛い。目眩もする。喉が渇く。

なんでだ。

声が。においが。感触が。


「……」


男の子だ。ちゃんとこの人は。


何も言えなかった。拒否できなかった。否定できない。きっと私はこの人に対して一生逆らえない。この人のために私を消費して欲しいと願ってしまう。


「……」


唇を重ね合わせたら、どういう原理か胸が痛い。嬉しくて悲しい。耐えがたいのに、焦がれてしまう。逃げたいのに、待ってしまう。強がりたいのに、泣けてしまう。



なんで。


こうなるのは分かっていたのに、なんで私は犬塚君と付き合ってしまったのか。

ゼロのせいだ。あいつが余計なことをしたせいだ。

そんなことを言っても何もできない。側からみたら、全部私がその選択を選んだだけにしか見えない。

そして、私は心の奥底ではそう思ってたのだ。

犬塚君が欲しかったのだ。好きになってもらいたかった。気持ちに応えたかった。


それだけの話だ。


私はなんて浅ましい人間なんだろう。本当に私なんか大嫌いだ。







「すまない。休みの日に呼び出してしまって。友人の家に行っていたのだろう?」


桐谷先輩は生徒会室でいつもと変わらず雑務をしていた。手伝うとか仕事を回して欲しいと何度か訴えたが、やんわりと断られているのでこうして頼ってくれるのは嬉しい。


「歩いてきたのか?吉岡さんを呼んでよかったんだぞ?ちょうど千津子さんと買い出しに行っていたから遠慮しなくても良かったのに」


電気ストーブの火力を上げて、桐谷先輩が手招きした。

ずるくて申し訳ないが、安心する。


「大丈夫か?最近君はぼんやりしているように見える。父も心配していたぞ」


「え?忍ダディが…?まっさかぁ」


「そうだろうか?昨日は、iPadで『女の子 10代 悩み 聞き出す』をこっそり検索していたが」


「えっ……」


それは私が聞いていい話なのだろうか。忍ダディの名誉のために聞かなかったことにしよう。


「それは別として、僕だって君のことが気がかりだ」


痛い。花巻先輩にぶん殴られた頬が、もう腫れも引いたのに痛い。


「君はきっと触れてほしくないんだろうが、君のお父上が僕は好きではない。…すまない、人様のご両親に失礼だが」


「……」


「最初、僕らに君の存在を隠していた。不審に思った父が素行調査をしなければ、君はそのまま放置されていた。生活の支援も打ち切られて。今もやはり君と関わろうとしない。立派なネグレクトだ、これは」


やめて。本当にやめてほしい。


「大事な大事な君なのに。辛かったな、苦しかったよな。君が今まで自分の家族の話を避けていたのがわかったよ。知らなかったとはいえ、これまで君に無神経なことばかりした。本当にすまなかった」


「やだ、頭なんか下げないでくださいよ」


苦しくて息もできない。もう全てばれているのだろうと思っていたが、現実をそのまま突き出されたら辛い。


「慰めになるか分からないが、僕は君が好きだ。ずっとずっとこの先もずっと好きだ。大事にしたい。傷がひとつもつかないよう守るから。僕の全て明け渡しても構わない。君が幸せなら、笑っていてくれるなら、救われるなら何でもするよ。だから」


桐谷先輩は悲痛な声を絞り出して、私の手を握った。


「この世界に絶望しないでくれ。君を一人にはさせないから」


「……」


この人は、聖人だ。だからこそ、近付きすぎてはいけない。蝋みたいに溶けてしまいそうになる。


「月並みな言葉しか言えないが、君が辛いことや苦しいことは僕にも背負わせてくれ。それが僕にとっても救済なんだ。君の痛みも知らず助けられもしないなら、それこそ僕は自分のことを一生許せなくなる」


この人はいつの間にこんな言葉を隠し持つようになったんだろうか。

いや、先輩は賢くて優しい人だからきっと最初から心中から生まれてくるんだ。私もその1%でもいいから温かい人でありたかった。


「勿体ないって気持ちでいっぱいです…正直…」


苦しい。泣きたくて、もう口の中で嗚咽が広がっている。


絶対に先輩に迷惑をかけない。困らせたりしない。こんなに優しい人を汚してはいけない。


「そうではないんだ、鬼丸君。君が思うよりずっと、君を失いたくない人間はいる。それに気付いて、自分を大事にしてくれ。誰かに助けを求めてほしい。頼むから…」


先輩の手は冷たく、表情の薄い顔なのに、必死さをたたえていた。

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