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97:

桐谷先輩のおうちにお世話になるようになってから、一カ月経った。


特にいまの所、問題はない。というか身に余るほど上等な暮らしをさせてもらっている。

一番警戒していた桐谷父も、私に部屋を与えた後は特に接触をはかろうとはせず、「必要なものがあれば購入しろ」とキャッシュカードを渡しただけだった。そもそも忙しいらしく自宅にあまりいない。ただ、私も今は犬塚君の家に夕方から夜20時過ぎまでいるし、先輩も予備校から帰って来るのは21時頃になるので、たまたま夕飯だけは3人で摂る。


「今日、なにか問題はなかったか?」


鍋を囲む姿はひたすらシュールだ。

意外と桐谷父から話を振ってくる。なんとなく、ぎこちなく。


「生徒会は後期の総会に向けての打ち合わせをしたところです。また、卒業式に向けての企画会議も併せて行いました」


そうか、と桐谷父は言葉少なくコメントする。

鍋は豪華にてっちりだ。基本は千鶴子さんは一緒に食事することはなく、夕飯の支度を終えたら明日以降の食材の発注や献立の作成などの仕事で自室にいたり、桐谷父の部屋のベッドメイキングなどしていたりする。


「そういえばこの前の模試の結果、千鶴子から報告を受けたぞ。A判定だからといって慢心しないようにしなさい」


意外と桐谷父は話題を振ってくるタイプの人だったのが、最初少し驚いた。


「鬼丸哀」


「は、はい…」


そして私のことをフルネームで呼ぶ。これにはまだ慣れない。


「君は何か報告はないのか」


「いえ…特には…。すいません…」


ふぐが箸からぽろりと落ちた。桐谷父が迫力ありすぎて、なかなか視線を受け止めきれない。


「なぜ謝る。何か私に謝るべきことをしたのなら、それこそ報告しなさい」


「いや、それは…」


「無いなら無駄に謝罪をするんじゃない。もっと自分に矜持を持ちなさい」


世のお父さんとはこのようなものなのだろうか。

データが自分のお父さんや黒澤さんくらいしかないから分からない。ただ、二人共あまり参考にならないひとたちだから。


でも、別に居心地がものすごい悪いわけでもない。

誰かに気にかけてもらえるのは嬉しいし、基本は無害なひとなのだということも分かっている。私を引き取ってしまった手前、距離感について桐谷父なりに気を遣っているのは気づいている。

ありがたいな、と純粋に思う。

桐谷先輩だって他人が自分の家にいるのは落ち着かないだろう。今年は受験生になる大事な時期なのに、嫌な顔ひとつせずに受け入れてくれて。


私の家のことを聞いて彼らはどう思ったのだろう。

親戚になってしまい、内心忌々しく感じてはいないだろうか。例えそうでも、私はそれを甘んじて受けよう。





私が桐谷先輩の家にお世話になると知って激怒したのが猿河氏だった。


「未だに納得できないんだけど。なんでそうなるわけ?」


額を押し付けて軽めの頭突きを繰り返してくる。そのまま臀部を鷲掴みして壁と胸板でサンドしてきて、身動きが取れない。


「なんでって、家庭の事情としか…」


「桐谷先輩の家に行くなら、僕の所でもいいじゃん。今からでも彼氏のうちに行くって表明しなよ」


猿河氏の身長に合わせて持ち上げられているので、足が宙ぶらりんになっている。こんな扱いにも慣れたので、今更怖いとも思わないけど。


「無理なことを言わないでよ…」


「何が無理?通そうと思えば十分通る要求でしょ。哀ちゃんは結局、人に嫌われたくない病を発症しているだけじゃん。優しくしてくれる人に離れて欲しくないだけだ」


「猿河氏…」


「僕、間違ったこと言ってる?君は、ただ単に非難されて見損なわれるのが嫌なだけでしょ。相手の迷惑なんて考えた行動じゃない。その為に彼氏の僕に寂しい思いさせても構わないと思っている」


間違ってない。猿河氏の発言は何一つ。

顔に熱が登る。熱くなった頬に猿河氏が自分の顔を擦り付ける。


「僕、本当に寂しいんだけど。犬塚のうちに通ってた時は最終的に哀ちゃんのうちで会えたからまだ許せたけど、今ほとんど会えてないからね。放課後は生徒会行くし、桐谷先輩の家に帰るし。それでも犬塚の所には通いつめているようだし。土日は土日で、犬塚んちに行くか、桐谷先輩の家の手伝いしているんでしょう?いつ僕に構ってくれるわけ?」


「ほ、ほら、今みたいに休み時間とか…」


「足りると思ってんの?こんな10分程度の休みじゃ何も出来ない」


「いや、いったい何をするつもりなの…」


既にパンツの中身に掌が侵入しているので、まぁ言わなくても分かるけど。


目に見えて、猿河氏が不満をためている。

桐谷先輩の家に行くことを最初話した時に、てっきり私と同じように安心してくれるかと思った。あんなに心配してくれていたし。しかし、猿河氏はそれからずっと不機嫌だ。


(『自分の立場分かってんの?犬塚にしろ、桐谷先輩にしろ、ボーっとしてたら嫁にされてる事もあり得るんだよ?』)


まさか、と笑い飛ばしたけど、猿河氏は笑わなかった。冗談のつもりじゃなかったらしい。


猿河氏が本気で怒ると犬塚君の100倍面倒臭いので、ほとぼりがさめるまで放置気味にしとこうと思っていたのだが、それが逆効果だったらしい。

こうやって休み時間に遭遇したら最後、空き教室に連れ込まれて慰みものにされる。まったく遠慮なく、一身に怒りや不満やその他色んな衝動をぶつけてくるので大変だ。私が悪いのは分かっているので、拒否はしないけど、誰かに現場を見られたらと思うと内心冷や汗が止まらない。


「留年したら、どうしよ…」


金髪を撫でながら、授業をサボってしまった時間を数えてみた。もう既に結構危ないかもしれない。


「…っう…」


余計な事を考えていたら脇腹を思いっきり噛まれた。最近、猿河氏の噛み癖がひどい気がする。元々、気まぐれに噛んだりしたけど、近頃は痕が残るくらい強く噛んでくるから困る。首や足の絆創膏にそろそろ誰か怪しいと思うだろう。


床に押し倒されたまま、ふと教室のドアに目がいった。

縁起でもないことに誰かと目が合った気がした。

あの冷ややかな視線には覚えがあった。


(桃園さん…?)


姿は見えないがそんな気がした。

また、彼女だとしたらこんな私の浅ましい姿を見られた事がなぜかとても悲しかった。

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