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「で。コイツをうちに連れてきた、と」
眉間に皺をがっつり寄せて、犬塚君が黒澤さんを強く睨んだ。しかし、黒澤さんはどこ吹く風でにやついている。
「そんなぁ、はるか君。こいつじゃなくてパパりんて呼んでよ〜、昔みたいに」
「んな呼び方、した事ねーよ!ゴミムシが!!」
犬塚君はめいっぱい黒澤さんに向かって吠えた。やっぱり当たり強いな…。
のこのこと犬塚家に黒澤さんを安易に連れてきた選択は間違いだったのかもしれない。
犬塚家へ再び訪問した黒澤さんは犬塚君にやはり門前払いされかけた。しかし、犬塚君がドアチェーン越しに私が後ろに控えている私を発見し、黒澤さんが「入れてくれないとこの子に手ぇ出しちゃう、かも♡」とか言ったせいでしぶしぶ黒澤さんの侵入を許した。
全面的に私のせいなので非常に心苦しい。
「ハル兄、このおじちゃんだれ?」
幼稚園から帰ってきた輝君と昴君がひょこひょこと、やや警戒心ありげに顔を出していた。それをみて、黒澤さんがすごく嬉しそうな顔をして両手を広げた。
「オッス!オラ、君達のおと…んぐっ!」
ばすん、と掌底をかける勢いで犬塚君が黒澤さんの口を塞いだ。
「こいつらにお前のような社会のゴミの存在を認識させるとか教育上悪い。輝、昴、この人はただの近所のおっさんだから気にすんな。あと、色々危ないからあっち行ってろ」
犬塚君は徹底して黒澤さんを嫌悪していて、輝君と昴君にも実父である黒澤さんの事は教えないつもりのようだ。
「わ、私、輝君達連れて外に出てるよ。公園で遊んでるよ」
こんなピリピリしている犬塚君を見るのは初めてかもしれない。私までなんだか緊張してしまう。そして、これから楽しい雰囲気になんかとてもなれないような空気を読んで、両手で双子の手を握る。
「頼む。助かる」
黒澤さんが話したいと言って犬塚家に連れて来てしまったのは私だが、そうそうに離脱するなんて人として良くないのが分かるが耐えられない。そもそも、他人の私が家庭の込み入った事情に立ち入る理由がない。
裕美ちゃんは今日はオフなはずなのだが、外出しているらしく家にはいない。この場に彼女がいたら少しは違うはずなのだが。
せめて裕美子ちゃんが帰ってくるまでは、外に出てよう。
若干の心苦しさを感じながら、私は犬塚君のアパートをあとにした。
◆
…大丈夫かなぁ。
犬塚家の家の近所の公園で、輝君と昴君と遊んで時間を潰していたら、もう日が暮れそうになってしまった。
さすがにもう黒澤さんは帰ってる、よね…?強く確信は出来ないが、このまま外に輝君と昴君を連れ出していても風邪をひかせてしまったら大変なので犬塚家に戻る事にした。
犬塚家に着いて中に入ると、女性もののブーツが玄関にあった。裕美ちゃんのものだ。と、胸を撫で下ろした。
「ただいま…」
安心して、リビングに戻ったがそこはまだ修羅場の空気なのを瞬時に感じた。
犬塚君の顔が険しい。
「なんだそれ、本気で言ってんのかよ」
吐き捨てたような言葉に、裕美ちゃんが「うん」と答えた。
この場の誰もが輝君と昴君が戻ったのに反応しない。いや、出来ないのか。
「もう決めたの、りっくんと再婚するから」
まさか…。
裕美ちゃんの言葉は些か信じ難かった。いつもの裕美ちゃんとは違い、能面のような無表情で彼女は確かにそう言い放った。
「裕美ちゃん…」
私は詳しい事情は知らないし立ち入る権利はないが、裕美ちゃんの決めた選択が彼女らしくないと感じた。
本気なんだろうか。今、この状態で黒澤さんが犬塚家に温かく迎え入れられる事なんか考えられないのだが。
「バカ女が。お前、コイツにどんだけコケにされたか覚えてるか?お前はこいつのせいで散々酷い目に遭わされただろ!それで、再婚とかぬかすのか!?」
「はるか君」
「俺が見たもの、コイツにされた事を、輝や昴にもさせるのかよ!母親として間違ってるとは思わないのか?」
いつもはご近所さんに迷惑がかかるから、とあまり家では大声を出さないようにしている犬塚君が、今回ばかりは激昂して怒鳴っている。大きな目は吊り上り、鼻の上には皺が寄っている。初めて見るほどの剣幕だった。
「血が繋がってるからか?それで俺たちにこの男を父親として充てがうのか!?ふっざけんな!コイツとつるんだ結果、最悪な目に遭っただろうが。忘れたのか?高校すら卒業させないままにガキ作って親と縁を切らせて風俗で働かされただろうが!!後は適当に女作って、父親らしい責任も取らないでお前を泣かせてへらへら笑ってる奴と再婚するとか頭おかしいだろ!」
「やめて。はるか君や輝君と昴君が生まれた事は最悪な事じゃないよ」
祐美ちゃんには少しも動じた様子はなかったし、考えを翻す余地もなさそうだった。
私の方が泣きたかった。他人の私が、犬塚君の言葉も祐美ちゃんの態度も刺さってしまった。心の中で自分のお父さんの事をまた思い出してしまった。
「なら、なんで…」
「それが、私にとってもはるか君達にとっても最良だと思ったからだよ」
祐美ちゃんの決意は完全に固まっていて、多分ずっと前から決めていた事なのだろう。にこにこしながら、こうなる日を予想していたのだ。
「最良、とかありえないだろ。少なくとも、俺はコイツを許せない」
そう、と祐美ちゃんは淡々と相槌をうっただけだった。少しも目をそらさずに、犬塚君を見つめ返していた。
「はるかの意見とか、どうでもいいよ。りっくんともう一度籍を入れるよ。暫くは難しいけど、落ち着いたら一緒に暮らして貰う。もう追い返したりしたらだめだよ」
「ハァ!?ふざけんな!!」
勢いよく立ち上がった犬塚君にはらはらしたが、彼が祐美ちゃんにも黒澤さんにも暴力を以って意思を通す事はしなかった。
「それが本気で言ってんなら、もう付き合ってられねぇ!コイツのいる家なんか要らない!」
犬塚君は玄関に向かって飛び出してしまった。コートも羽織らずに。
「犬塚君!」
私はとっさにそれを追いかけた。
必死に駆けて、犬塚君の上着の裾をなんとか捕まえた。握りしめた布を離すまいと力を込めた。
この手を離したら、犬塚君が私の知らないどこかに行ってしまうような気がして怖かった。
刺すような外気の冷たさも感じないように、犬塚君の足は全く止まらない。どこか行くあてがあるとは、思えなかった。
「離せ、鬼丸!付いてくるんじゃねぇ!」
もうとっぷりと日が暮れた真っ暗な空の下で、犬塚君が叫んだ。
「やだ!」
私も負けじと声を張り上げた。
「お前には関係ないだろ!さっさと帰れ!!」
「いやだよ!犬塚君といたい!」
引いてあげたりなんかしない。犬塚君を一人ぼっちにさせて、私の知らないところに行く事なんか許さない。
「私と逃げよう、犬塚君」
立ち止まった犬塚君に、その前方に立ち塞がり手を差し出した。犬塚君は目を吊り上げたままの顔で、私をじっと見返した。
「犬塚君の気持ちはわかるよ。この世界は思い通りになんかならない。だから、逃げよう。犬塚君が行きたいところまで私も行く。一人にさせない」
前にも言った。
犬塚君は一人になんてならない、孤立ならない。もしも犬塚君が一人になりそうでも私が阻止するし、それを犬塚君が止めることは出来ない。
「鬼丸…」
犬塚君に選択肢はない。私がする事は、地獄の果てまで彼に付き合うだけだ。
少し困惑しながら、犬塚君は私の手をとった。




