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善良な山羊より、親愛なる悪党どもへ  作者: 秋澤 えで


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7/18

 店内での殺人事件から1週間。カプラはまるでそんな事実などなかったかのように、いつも通り穏やかな時間が流れていた。

 窓際でミルクティーを飲んでいる高齢の男性はもう常連と言ってもいいほど通ってくれていて、今は文庫本を手にしながらうつらうつらと船を漕いでいる。


 営業中でも十分時間の余裕があるため、俺はカウンターの中で紅茶のブレンドについて試しては記録をつけていた。いつも通り、平和な午後だ。

 夜に行きたいと電話で告げ、拒否したテオドールは予想に反して、本当に来なかった。なんだかんだ、どうせふてぶてしい微笑みをつけたまま来ると思っていたため拍子抜けした。そしてそれから1週間、テオドールは来ていないし、着信もない。テオドールからの一切の接触が絶たれていた。


 なんのつもりかはわからない。

 拒否されてショックを受けたのか、しばらく距離を取ってみようとしているのか、はたまたシンプルに悪い仕事が忙しいのか。一日のうちに何度も着信をしていた時とは打って変わった静けさに、安堵を覚えていいのか迷っていた。


 テオドールと連絡をしなくても、カプラの営業になんの問題もない。常連客数人は相変わらず来てくれるし、偶然立ち寄る客やSNSの投稿を見てくる客もいる。先日商店街で声をかけた童顔の青年も一度来てくれていた。


 なんの問題もない。胸に引っかかるような感覚は、どこから来るものか見当がつかなかった。とりつく島もなく拒否したことの罪悪感か、それとも機嫌を損ねたことで起こりえる最悪の事態への怯懦か。

 日が落ちて、閉店まで1時間となったころ、店のベルが鳴らされる。カウンターの奥で閉店準備の片づけをしていたため、表に出ていった。



「いらっしゃい」

「……やあ、」



 扉を開けたのはテオドールだった。無意識に顔が強張る。ついに来た、と思った。ずっと来ないということはあり得ないと、わかってはいたのだ。



「その、座っても?」

「ええ、」



 テオドールはカウンターの一番端の席に座った。他に客は誰もいない。もう閉めてしまった方がいいだろう、と思い「Closed」の札を掛けようとすると、制止された。



「いや、違うんだ。閉めなくていい」

「……閉めた方が、」

「私は客として来た。閉店の時間になったら帰るし、他の客に居てもらっても構わない」



 逡巡して、札から手を離した。他の客がいてもいいのならここで今すぐ危害を加えられたりすることはないのだろう。カウンターの中に戻りテオドールの顔を見て、初めて彼が笑っていないことに気が付いた。けれど不機嫌なわけでも無表情なわけでもない。居心地悪そうにあちこちに視線が飛んでいる。今まで見てきた彼とは全く違う姿に思わず凝視してしまう。いつ見てもふてぶてしく微笑み、優位性と自信をにじませている顔をしていたため、こんな表情ができたのかと嘆息する。



「注文は?」

「ダージリンを、ホットで」

「ええ、」



 背を向けて茶葉とポットの用意をしていると背中に視線が突き刺さるのを感じた。あまりに今までと違う態度に困惑する。



「その、まだ、私の顔を見ると吐き気がするかい?」

「……多少」



 それは嫌味や皮肉ではなく、単純に確認するようだった。正直もはや吐き気、というよりもシンプルな緊張に変わっていたのだが、あえてそう返す。



「……すまなかった、本当に。君への配慮が足りなかった」

「何についての、謝罪ですか?」

「この店の中で奴を殺してしまったことと、それを君の目の前でしたこと。君は先日死体を見た時、さして取り乱したりしなかったから、殺しを見ても平気なのだと思ってしまった。君は争いとは無縁の、一般人だと知っていたのに」



 湯を沸かしながら、たどたどしい謝罪と弁明を背中で聞いていると、胸のつかえのようなものが多少マシになる気がした。化け物じみたこの男はようやく自分の同じものを見ようとしているのだとわかった。



「俺が怯える姿が好きなんでしょう。満足していただけましたか?」

「違うっ、いやそう言ったのは私だが、これは、私の望んだ結果ではなかった」

「じゃあ殺しますか?」



 その質問は平然と口をついて出た。背後でテオドールが息を飲むのが聞こえた。

 沸騰したのを確認して、ポットに湯を注いでいく。茶葉が踊るのを確認して、砂時計をひっくり返す。



「……殺しはしない、これを理由には」



 少し質問を逸ってしまったと僅かばかりに後悔する。そしてテオドールも気づいているだろう。殺さない、という言質が取れるかと思ったが、そこまでは甘くなかった。



「じゃあ抱きますか?」

「は、」

「チキンレースなんて無意味でしたね。あんたは俺が欲しいのでしょう。迂遠なことしてないで、銃片手に犯したらいいんじゃないですか? 俺は命が惜しいし、人殺しが怖い。逆らいませんよ」

「違う、」

「違わないでしょう。今でさえそうだ。どうして俺がここにいるか」



 何一つ違わない。俺がなぜここにいるか。それはテオドールが常に殺害を匂わせるからに他ならない。脅して囲う、が脅して犯すに変わるだけだ。俺からすべてを剥ぎ取っておいて、なぜ今更躊躇することがあるのだろうか。

 返事はない。音もなく落ちた砂時計を確認して茶葉を取り出し、ポットとカップをテオドールの前に置く。



「お待たせしました」

「ハイネ、私は君の尊厳を踏みにじるつもりはないんだ」

「今、踏みにじってる自覚がないんですか?」



 狼狽えた様子に呆れる。今のテオドールであれば口を開けば開くほど失言するのではないかと思えるほどに動揺していた。



「冷めますよ」

「あ、ああ……」



 琥珀色のダージリンがカップの中へと注がれていく。ポットがカウンターに再度置かれるのを見てティーコジーを被せた。テオドールの手は大きすぎて、通常のサイズであるはずのカップが小さく見える。



「ハイネ、私は君に、ひどいことをしている自覚は、ある。私は、君が積み上げてきたものすべてを奪って、ここに閉じ込めた」



 灰色の目が自信なさげに揺れているのを、俺はどこか冷静に見ていた。



「君を欲しいと思ってしまった」

「ええ、」

「きっとやり方を、私は間違えた。……けれど私は、もう君を手放すことはできない」



 こちらをカウンター越しに立つ俺を見上げるテオドールを眺めていると、表現しがたい感覚に襲われる。俺は半ばヤケになっていた。それこそ、殺されようと犯されようと、もうどうとでもなれば良いと。だが今の俺は今までこの男と相対している中で一番冷静だった。


 テオドールはきっと今晩話す内容を準備してきていただろう。1週間時間を空けて、一般人が殺人をどう思うかについて考えて、そしてフォローのために今日ここに来た。俺を怯えさせないために、他の客がいることや時間制限も設けるという譲歩までして。

 だからこんな話をする予定ではなかったはずだ。今テオドールは、用意した言葉ではなくその場で考えたこと、思ったことをそのまま口に出している。



「君が、怯えているのを見るのも、怒っているのを見るのも好きだ。君のお人よしとも言ってもいい善性や感性も、好ましく思っている」



 この数分で、ひどく彼が幼くなったように見えた。



「いろんな顔をする君を、見たい。だが、君から軽蔑の眼差しを受けるのは、堪える」

「反社会的活動を行う人間が、殺人鬼が軽蔑されないとでも思っていたんですか? おめでたいですね」



 つい上がりそうになる口角を無理矢理抑え込んだ。

 推測は確信に変わる。

 軽蔑、その言葉が正しいのかはわからない。先週テオドールへ向けた視線は、恐怖と怯え、そして忌避だった。自分とは全く違う価値基準を生きる怪物への眼差し。それをテオドールは軽蔑として受け取った。俺が軽蔑していたかどうかではなく、テオドールがそのように受け取って、そのうえで俺からの蔑視を恐れているという事実こそが重要だった。



「あなたはあなたであることは変われないでしょう。あなたが人殺しだという事実は変わらないし、人殺しを軽蔑する俺の価値観も変わらない。であれば、俺はあなたがあなたであるという事実をもって軽蔑します。暴力を、死を振りかざして闊歩するテオドール・セルパンを、俺は軽蔑する」

「……ハイネ、」

「軽蔑に耐えられないなら俺を手放せばいい。耐えられないなら殺せばいい」



 勢いは殺さない。正気へは戻らない。ただ今は畳みかけるべきだと理解していた。



「チキンレース? 違う。あなたは俺を殺せない。あなたはあなたのままでは、望んだ結果を得られはしない。俺はすでに逃げることは諦めた。プレイヤーは俺じゃない」



 俺の何をそんなにも気に入ったのか、俺には微塵も理解できない。手放せない理由も、殺したくない理由も俺にはわからない。だが俺を見上げる目は、浅ましく希う目だった。



「気に入られるために手を尽くすのは俺じゃない、あんたの方だテオドール」



 恋とは罪悪だ。頭が良いと称される男の判断能力を、こうも容易く低下させる。

 初めて俺は、この目の前の殺人犯のことを哀れに思った。

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