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善良な山羊より、親愛なる悪党どもへ  作者: 秋澤 えで


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6/18

 夕方の商店街を歩いているとランドセルを背負った数人の子供が人ごみをすり抜けるように走っていく。自転車の後ろに幼児を乗せた母親が危なげなく自転車を走らせる。帰路に着く者、夕食の買い出しに繰り出す者で通りは賑わっていた。


 ルドルフが帰ってからしばらく眠り、窓から差し込む夕日で目を覚ました。寝すぎた身体の軽い運動のため、あるいは日常をなぞるために財布と携帯だけをもって買い出しに出た。茶葉や砂糖は足りているが、牛乳や卵は新しいものを買った方がいいだろう、と店の冷蔵庫の中身を思い出しながらスーパーへ向かう。


 この1か月で自分の日常も大きく変わった。今はこの夕日や帰路に着く子供たちの姿を見てどこか安心するが、つい2か月前までは日が出ている時間帯に退社することはなく、賑わう通りは飲み屋の多い繁華街だった。きっとそれは悪くない順応だ。それこそ、残業が嫌で定時で帰れるような職に転職する者も少なくはないだろう。


 今俺は、それなりに順応している。だがその一方で、人の死が軽々しく店の中に転がるような状況には慣れていない。そしてそれは慣れるべきではないとも思っている。おそらく、流されて倫理観を麻痺させ、慣れてしまった方が良いのだろう。どうせ逃げられはしないのだから。だが30年善良に生きて培ってきた価値観や道徳観が、怠惰に流されそうになる心を明確に制止する。


 ぼうっとしながら歩いているとスーツを着たサラリーマン風の男に追い越しざまにぶつかられる。少し肩が当たった程度のためふらつくこともないが、男はこちらを見ようともせず、手元のスマホを見ながらスピードを緩めることなく歩いていった。周囲も男の姿を見ると避けるように道を空ける。スマホを見るのなら一度立ち止まればいいものを、と眉を顰める。周囲も同じ感情だろう。だが少し先でいくつもの買い物袋を持った青年がいるのが見えた。当然普通に歩いていれば青年の姿は目に入る。だがスマホを注視した男はそれに気づかず、小柄な青年の背中に盛大にぶつかった。追突されるようにぶつかられた青年はつんのめり、持っていた買い物袋がぶちまけられる。

 何を考えるでもなく慌てて駆け寄り、道に落ちたものを拾おうと青年に声をかけた。



「大丈夫か?」

「何しやがんだくそ野郎! どこに目ぇつけてやがる!」



 拡声器でも通しているのではないかと思うほどの怒声にかけた声はかき消された。

 一方青年にぶつかった男はまさかここまで怒鳴られると思っていなかったのか、一瞬慄き、逃げるように姿を消した。



「てめえ顔覚えたからな! 二度目があると思うなよ!」



 鬼の形相で背中に追撃の言葉をぶつける青年に苦笑しながら、落ちていた玉ねぎの袋を渡した。



「……災難だったな」

「本当にな畜生。……ああ、悪い、ありがとう」



 声のトーンを下げた青年は素直に礼を言って受け取った。ふと小柄な青年を真正面からみて見覚えがあることに気が付いた。この1か月で何度かこの商店街に見かけたのだ。主婦の多い時間帯に、中学生、あるいは高校生の男の子がいるのはなかなかに目立つ。そしていつも限界まで買い物袋や段ボールを抱えている。

 こんな子供が理不尽な目に遭ったとき、条件反射的に相手に怒りをぶつけるのは意外と難しい。男を怒鳴りつけた彼はこちらの手助けなど不要だったかもしれない。



「これでたぶん全部だ」

「ありがとう、助かった」



 青年は立ち上がると、買い物袋が裂けて再び玉ねぎをはじめとした野菜が歩道に転がった。どうやら先ほどぶつかられたときに買い物袋の底をアスファルトに擦ってしまっていたらしい。



「あー、近くの店で袋を買ってこようか?」

「いや、いい。近くに車を停めてる」

「……そうか。じゃあ車まで運ぶのを手伝おう」



 青年の物言いに、この小柄な彼が車の免許を取れる年齢なのだと気づき、見た目と体格で子供だと思った自分を恥じた。



「これくらいなら一人でも」

「俺が手伝いたいだけだ。いいか?」

「……じゃあ頼む」



 おせっかいなのだろうが、明らかに困っているのを見て見ぬふりすることはできない。この青年は子どもではないが、それでもこれだけの食材を袋にも入れずに抱えているのを見れば、おそらく落としはしないかとまた心配になるのが目に見えている。それならば自分から先に申し出る方が楽な気がした。



「あんた、人が良くて損するタイプじゃないか?」

「……最近は似たようなことを言われることが多いが、誰かに親切にしておけば回り回って帰ってくることも多い。それに良いことをしているところ自分にとって都合の良い人が見てくれていることもある。性分でもあるが打算でもあるよ」

「考え自体は強かだな」



 駐車場までのさしたる距離ではなかったが、最初の剣幕からのイメージに反し青年はおしゃべりだった。



「あの野郎、ぶつかったあと1回俺の顔を確認して安堵した顔したんだぞ。俺が童顔だから子供だと思って、文句言われたりしないだろうって思ったんだろうな。ファック!」

「ああ……童顔は損するな」

「全くだ。そのうえ身長も低いせいで子ども扱いされるわ舐められるわ、酒を買えば年齢確認されるわで最悪だ。こちとら30過ぎだぞ」

「……それは、大変だな」



 ただ愚痴を聞いているつもりだったが、思わず本心からの言葉が出る。自分も童顔のせいで若く見られるが、彼ほどではない。少なくとも、未成年と間違われることはない。隣を歩く彼を見下ろすと長いまつ毛で縁どられた目は見えない敵を睨むように細められていた。改めて見直しても、30過ぎの年上には到底見えなかった。単純に童顔ということもあるが、顔の造形が整いすぎているせいで中性的な少年のような雰囲気がある。基本的には年上には敬語を使うが、もはやこの彼に今更敬語にすることはできなかった。むしろ今替えたら彼のことを子ども、ないし年下だと思っていたことを白状することになる。ここまでの話の流れから、それは流石に言いづらかった。



「これ、俺の車。ありがとう。手間かけさせた」

「いや、この程度全然かまわない」



 後部座席のドアを開けて荷物を積んでいく彼に持っていた野菜を渡す。彼の車はハイエースの大きなワゴン車で、彼の見た目に見合わないが決して口にはできない。



「今、俺の身体に合わないくらい車がでかいと思っただろ」

「いや、そんなことは流石に。仕事用の車かと思っただけだ」

「ああまあ。仕事でも使うが、弟の身体がでかくてな。普通の車じゃ狭いからこれが普段使いになってるんだ」



 口から出まかせだったが当たらずとも遠からじだったようで乾いた笑いを返す。



「あんた、住んでるのはこの辺なのか?」

「ああ、この近くの喫茶店で雇われ店長やってる。カプラっていう店だ。ここの商店街もよく使ってるから、また会うこともあるだろうな」

「……そうか、カプラ。また行かせてもらう」




 目当てであった牛乳と卵を買うために通ってきた道を再び戻る。手間ではあったが嫌な気分ではなかった。むしろどこか清々しい。それは自分の善意の行動により、何も起きなかったことへの安心感だ。余計な仏心を見せて面倒ごとに巻き込まれる前科があったが、今回は、何も起きなかった。それだけで自分の行動は間違っていないと思えた。


 足取り軽く夕日に照らされた商店街を歩いていると、ポケットに入れたスマートフォンが震えるのを感じた。

 メッセージアプリの通知で、以前飲みに行ったグループのメンバーからだった。思わずため息を吐いてしまう。

 彼らは何も悪くない。飲み会の場ではさんざん仕事の話をしていたのに、翌週には退職しているという常軌を逸した身の振り方をした同期というのは、気がかりではあるだろう。だが自分の意思でもなければ会社の意思でもなく、対外的に一切説明ができないリストラを被った俺から彼らに話せることはなにもない。少なくとも、諸事情で退職して、今はのんびり喫茶店の店長をしている、などと笑顔で言えるほど、今の状況を達観できなかった。


 既読をつけないよう注意深く画面を消すと、再びスマートフォンが手の中で震えだす。拒否、応答というボタンの上に表示されているのは諸悪の根源の名前だった。流れ出す軽快なのメロディはどこか滑稽に感じられた。夕方まで寝ている間にも複数回着信があったのは気づいていた。覚悟を決めて赤い応答のボタンをタップする。



「……はい」

「ああっ、良かったハイネ! 体調はどう?」

「おかげさまで」



 意識せずとも硬い声が出る。皮肉にも聞こえる返事だと知りながら特にフォローも入れなかった。心を落ち着かせるために、周囲の喧騒に耳を傾ける。



「昨日はすまなかった、約束を破ってしまって」

「……約束?」

「ああ、店を汚さないと君に言っていたにも関わらず、ひどく汚してしまったから」



 あまりにもずれた返事に、ため息すら出ず閉口した。この男には、人が殺される瞬間を見た一般人がどんな思いをするか、どんなことを考えるか微塵も想像ができないのだろう。そして多少の想像はできるだろうと僅かながらに期待した自分が間違いだった。根本的に、価値観の違う怪物のようなものなのだ。俺の生きている世界線で、奴は息をしてはいない。



「直接謝りたいんだ。今夜そっちへ行ってもいいかな」

「嫌です」



 考える前に口から出ていた。スマートフォンの向こう側で、微かに息を飲む音がしても、溜飲は下がらなかった。今俺の頭の中にあるのは、拭い損ねた血が付いたまま、俺に伸ばされた男の手だった。



「今、あんたに会いたくない」

「ハイネ、」

「あんたのことを思うと、吐き気がする」



 口から出たのは傷つけよう投げつける言葉ではなく、すべて本心からの言葉で思わず笑ってしまった。本当に、考えただけで眩暈がする。


 今俺は、明確にあの男が悍ましく、恐ろしい。


 返事は聞かず、そのまま切った。唇を噛み、ポケットにスマートフォンを戻す。

 拒否はした。ただそれにテオドールが従うかはわからない。命を握られている以上、俺には拒否権がない。それこそ、生かすも殺すもテオドール次第、彼の気分次第なのだ。



「……ははっ」



 もうどうにでもなればいい。どうせ命がけのチキンレースからは降りられないのだ。

 来るなら来い。殺すなら殺せ。

 いいか、と聞く癖に、従いはしないのだから。確認や許可など、茶番でしかない。聞く耳を持たない災厄はもはや災害に等しい。


 スーパーで牛乳と卵を買った。

 その夜、テオドールは来なかった。

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