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善良な山羊より、親愛なる悪党どもへ  作者: 秋澤 えで


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5/18

 目を覚ますと痛みと軋みに襲われた。軽く伸びをしながらあたりを見て、昨晩は床で寝てしまったのだと気づく。そして同時に床で寝るにいたった理由も思い出した。



「っ……!」



 今度は込み上げる吐き気を我慢せずトイレへと駆け込む。胃の中はほとんど空っぽで、喉が焼けるように痛み生理的な涙がにじんだ。


 さすがに、人が一人殺されるよう場面が夢だとはもう思わなかった。

 トイレから出てきて部屋の壁に掛けられた時計を見ると、針は午前10時を指している。今日は定休日ではない。すでに開店すべき時間だ。


 服は昨晩から着替えていないが極端に汚れているわけでもないので着替えなくても良いだろう。軽食の仕込みはできていないが、それは客に謝るしかない。とにかく一刻も早く回転の準備をしなければ、と思い1階へと続く扉のノブに手をかけて硬直した。


 1階には、今何があるのだろう。

 1月前の死体のように、まるで煙のように消えてしまっているだろうか。いや、消えてしまっていて欲しい。だがもし、もしも昨晩の状態のまま放置されていたら、あるいは端に寄せるようにあの男の遺骸があったら、俺はいったいどうすれば良いのだろうか


 ノブを掴んだ手を緩めて扉の前でうずくまった。すると扉の隙間に1枚のメモが挟まれていたことに気づく。

 引き抜くと走り書きながら達筆な文字が並んでおり、俺の様子から今日の営業は無理だと判断して扉に臨時休業の張り紙を貼ったこと、遺骸にと店内については掃除屋が片付けに来ることが端的に書かれていた。ひとまず自分がしなければならないと思っていたタスクがすべて片付けられていることを知り安堵のため息を吐いた。


 署名はないが、自分が不安に思うことに焦点を当てて最低限の説明のみ残すあたり、テオドールからのメモではない気がした。おそらく俺を2階まで運んだトーマと呼ばれた男だろう。テオドールのことをイカレ野郎扱いしていたことを思い出した。


 今日はもう2階に引きこもろうと決め、襟元を緩める。

 トーマからは掃除屋が来ると書いてあるが、いつ来るのかがわからない。文面からして、あの後すぐに死体だけでも片付けたということはないだろう。掃除屋が来るまで放置されているに違いない。既に来て片付けていてもおかしくはないが、いまだ片付け終わっていない可能性も十分にある。うかつに1階へ降りて行って放置されたままの遺骸を目にした日には卒倒する自信がある。ならばそれこそ夜まで引きこもってよっぽど片付けられているに違いない時間になってから確かめに行きたい。どうせ店の鍵はテオドールも持っているのだ。テオドールから掃除屋に渡していれば俺がわざわざ応対する必要はない。


 それまで何もかも忘れてもう一度寝よう。今度はちゃんと着替えてベッドで寝よう、と決めた俺の予定を初手から崩すように、1階からどたどたと騒がしい足音がした。そして間髪入れずに扉を強くノックされる。



「こんにちはー。死体とか片付けたから部屋の確認してもらっていい?」



 想定外に大きな声とどこか間延びしたような幼い話し方に出鼻を挫かれた。

 「死体とか片付けたから」という非現実的な呼びかけであるはずなのにその口調はまるで今日の夕食のメニューでも聞くようだった。

 一瞬扉を開けようか迷う。昨晩から目に焼き付いて離れない光景がまざまざと蘇ると、再び吐き気が蘇った。扉の外の男は、片付けが済んだと言っているが、俺はいったい何を確認すればいいのか。“何か”が残されていたら片付けてくれとでも言うのだろうか。



「うーん、もしかしてまだ寝てる?」

「……すまない、今行く」



 ただ想像して最悪だと思うのは、ぎりぎりまで1階に行くのを避けて、明日の開店直前に店内で“何か”を見つけてしまうことだ。せめて扉の外の“掃除屋”と一緒に確認した方が幾分かましだろう。

 のろのろとノブを回すと、扉の向こうにいたのは身長が2mを超えていそうな赤毛の青年だった。



「初めまして、僕はルドルフ・カデンツォ。ボスに頼まれて掃除に来たよ」

「ボスって、テオドールのことか?」

「うん。君がハイネだね。よろしく」



 なんの衒いもなく差し出された右手と笑顔に毒気を抜かれ、反射的に右手を差し出す。大きな手は子どものように温かかった。



「トーマさんから体調が悪いって聞いてたけど大丈夫?」

「……ああ、一応は」

「階段、気を付けて」



 俺の前を行くルドルフは気遣わし気に視線を送る。向けられた大きな金色の目にどこか困惑する。この男はイカれた男代表であるテオドールの部下、つまりは彼自身も反社会勢力の構成員だろう。それも掃除に来たと言ったが掃除は掃除でも完全に非合法な掃除だ。まともではない。だがルドルフには陰りや胡散臭さも何もなかった。ただ身体の大きな気の良い青年に見える。



「身体は回収して、床の掃除はしたよ。早めに呼んでくれたから、染みになる前に片付けられてよかった」



 恐る恐る店内へと踏み入れる。窓からは穏やかな日が差し込んでいて明るい。どこを見てもなんの違和感もない。ここで殺人事件が十数時間前にあったなど誰も思いはしないだろう。それこそ、路地で見た死体が跡形もなく片付けられていたのと同じように。



「大丈夫、そうだ。気になるところはない」

「そう? よかった」

「……話は変わるが、ここがバーだった時の店長の死体を片付けたのもルドルフか?」

「ああ、マシューを片付けたのも僕だよ。ボスは身体の片付けで僕を呼ぶことが多いから」



 ニコニコと朗らかに語るルドルフには罪悪感や後ろめたさは微塵もない。頼まれたものを片付ける、ただそれだけの認識で仕事をしているようだった。



「ところで、ちょっと厨房を借りたいんだけど、いい?」

「厨房を?」

「ああ、鮮度が落ちてしまう前に簡単な下処理だけしたくて」



 10分くらいで済むし汚さないから、と言葉を重ねるが、話の前後の関係が見えず怪訝な顔をする。



「……鮮度?」

「そう、血抜きだけでもしたくて。本当は仮死状態くらいでできればベストなんだけど、今回はそれもできないし、なるべく早く済ませたくて」

「…………何か、食材でも持ってきてるのか?」

「そこに置いてあるのがそうだよ。お店の掃除を優先したから、身体自体の処理はやっつけなんだ」



 はっきりと何と言わずとも、ルドルフが“なに”について話していることは理解できた。見かけだけで彼が善良に近い人間だと判断しかけた数分前の自分を引っ叩きたい。所詮はイカれた男が連れ歩く部下なのだ。まともな神経もしているはずもなかった。



「……お前は、死体を食うのか。そしてその処理を厨房でしたいと」

「うん。せっかくだから傷む前に処理したくて。ああ、良かったらハイネも食べる? 料理あんまり得意じゃないから簡単なものしか作れないけど」

「…………悪いが飲食店だ。衛生観念から死体の処理は遠慮してくれ」



 吐瀉物の代わりに口から出たのは乾いた笑いだけだった。

 殺人鬼の部下に食人鬼がいても何らおかしくはない。



「そっか残念。まあ多少傷んでても食べられるしいっか」

「……その男は、殺されるようなことをしたのか?」

「ん? うん一応。悪いクスリを捌いてたみたいで。ボスはクスリとかが嫌いだからね。ちょっとオイタが過ぎたから、昨日のうちに殺す予定だったんだ。でも場所はここじゃなかったはずなんだけどね。トーマさんからはボスがカッとなって殺したって聞いてる」



 カッとなって殺して、その死体を食べる。倫理観などかけらも持ち合わせていないように見えるのに薬物については潔癖なのか、と役に立たない知見を得る。



「お前たちは皆、その、人間を食べるのか?」

「いや? 人によると思うよ。ボスは食べないし、トーマさんも食べない。僕が知ってる限りだと僕と兄さんだけだな。元居た村でも人を食べるからって嫌われていたし」



 嫌われる、だなんて簡易的な言葉で済ませていい言葉なのかと嘆息する。ただ彼が扉越しで軽々しく問いかけた時、今日の夕食のメニューでも聞くようだと感じたのは全く間違いではなかったらしい。



「ハイネもパンは食べるし、ワインを飲むだろう?」

「それは、まあ大抵の奴がそうだろうな」

「パンはキリストの肉だし、ワインは血だよ。なら神の子の人間の肉を食べて血を飲むのは何らおかしいことでも変わったことでもないだろう?」

「……同意しかねるとだけ言っておく。少なくともお前の食生活に口出しする立場に俺はないと思う」

「ハイネは良い人だね。寛容とか多様性とかって、君が言ったような感覚だと思う。好き嫌いは人によってあるはずだし。僕は人間の肉は好きだけど牛や豚は可哀想で食べられないし」



 適当に肯定しようかとも思ったが、さすがに口を噤んでおいた。人の主義主張については踏み入らないのが無難だ。それも宗教が絡むようであれば凡そ無宗教の俺が口出しできる領分ではない。

 俺の沈黙を肯定的に受け取ったのか、ルドルフはなんの邪気も含みもない穏やかな笑顔で、黒く大きなビニール袋を担ぎ上げた。



「困ったこととかがあったら何でも言ってね。優しく善良な君に、神の祝福があらんことを」



 カランコロンと、呑気な音と共に死体と食人鬼は姿を消した。誰も何もいなくなった店内は、いつも通り採光良く、穏やかだった。ようやく慣れてきた俺にとっての日常。だがこの日常はその瞬間ごとにいつでも非日常に姿を変えるのだろう。

 ルドルフが出て行った玄関のカギを閉め、2階へと戻る。何はともあれ、今は休息が必要だった。


 シャワーを浴び着替えて、その日初めてスマートフォンに触れた。メッセージアプリの通知がいくつか溜まっていて、それから普段あまり見なくなった着信履歴の通知。スワイプすると、テオドールから複数回着信があったようだった。

 折り返ししいようなどと迷う間もなく、スマートフォンをベッドわきに放り投げる。なんの用かはわからないが、少なくとも今の俺に出てやる気はさらさらなかった。


 テオドールのことを困らせたいのかそれとも怒らせたいのか自分にもわからない。ただ優しくあるいは親しく対応する気がないのは確かだ。言葉にできない不満の発露として、着信無視は稚拙だろう。それでもわずかでもこの抗議を読み取って焦燥感に駆られて欲しいというささやかな意趣返しだ。

 毛布に包まりながら、着信音が聞こえることのないようにベッドへもぐりこむ。


 まもなく押し寄せた疲労感と眠気に遠のく意識の中で、テオドールに殺された俺もまた彼らと同じようにルドルフに食べられるのだろうか、と想像した。その時俺はきっと灰音啓治ではなく“ハイネだった肉”としてまな板に乗せられるに違いない。

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