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喫茶店「カプラ」は午前10時から午後7時まで営業している。基本的に紅茶を主に扱っていて、一部ケーキなどの軽食も出している。従業員は一人で回しているため、提供には時間がかかる。席数は少なく、一人の客がゆったりと過ごせるようになっている。
オープンから2週間。喫茶店「カプラ」にはほとんど客がおらず、閑古鳥が常連と化していた。
ここから逃亡し、あっという間にテオドールに捕まって帰ってくると、開店にあたって必要な書類などがすべて揃っていた。渡された書類の中には、テオドールからの指示書もあり、基本的に好き勝手やって良いが、目立ち過ぎないようにと釘を刺されている。簡単なもの上げると、客を呼ぶための宣伝ができない。
新しい店、となるとSNSやチラシ、広告での宣伝が必須となるが、それらについてはテオドールから禁止されている。しかも立地は人通りの多い場所から数本入った場所。通りすがりに入るような立地ではない。つまりオープンしていることにすら気づかれていない。
一応必要そうなものはすべて揃えオープンまで漕ぎ着けたが、客がいなければ仕事もない。
テオドール曰く、フロント企業の一つであり、営利を目的としていないと。渡された銀行口座の通帳を眺めながら、資金洗浄とかに使われるのだろうかと想像する。もっとも、書類上ただの雇われ店長である俺は何も知らない体を貫く。
一日に来る客は2,3人程度。どれも一人で来る客で、ゆったりと過ごしていく。こちらとしても客がいなくなってしまうとあまりに暇なため長居も上等だと思っている。勤め人であった時の毎日を思えば、この店は時が止まっていると言っても過言ではない。そういう意味では、この閑古鳥の鳴いている喫茶店にも需要があるといえる。
買い出しに行っては、店員や客に声をかけて、喫茶店を営んでいることを伝えてはコツコツと集客をしている。
1週目はあまりの暇さに発狂しかけたが、2週目ともなると順応した。前の営業職時代はがつがつとしていたが、案外こんなのんびりとした生活もできるのか、と驚いている。
「あの、紅茶とかケーキの写真撮って、SNSとかに上げても大丈夫ですか?」
そう聞いてきたのはすでに2,3回来てくれている近所に住む女性だった。
SNSに載せていいか許可をとるものなのか、と思いつつ、テオドールから宣伝を禁止されている手前即答はできなかった。
「ありがとうございます。ただ掲載していただいて問題ないか、オーナーに確認してからでも良いですか? また次来ていただくときにお返事しますので」
今後も通ってくれという意味も込めて返事を先延ばしにしておいた。
ただこの客はわざわざ許可を取ってくれたが、他の客は勝手に投稿していてもおかしくはない。そのあたりのこともテオドールに確認しなければと一人ごちる。
オープンから2週間。意外なことにテオドールは1度店に来ただけだった。
まるで読めない奴の行動に戦々恐々としていたが、オープン後にふらりと1度来ただけで、無理に迫ってくることも通い詰めることもなく、拍子抜けした。必要なやりとりは電話で済ませ、必要な書類などは郵送でやり取りしている。
正直頗る快適な距離感だ。
ほとんど客が来ていなくても、店長として給与はもらえる。好きな紅茶に囲まれてのんびり仕事ができる。客層も穏やかでストレスフリー。そのうえ一番の不安因子であるオーナー、テオドールが姿を見せない。
営業職時代と比べるとよく眠れるようになったし、肌艶も良くなった。張りつめるような緊張感もなく、胃痛もない。現状ただただ素晴らしい転職をしただけになってしまっている。
この生活がちょっといいな、と思ってしまいつつあるが、それを言語化したら相手の術中にはまってしまっている気がするのでひたすら作業をして誤魔化す。
スマホをスワイプしてようやく見慣れ始めたテオドールの名前をタップする。数回コールして、それから切る。最初は電話することにも怯えていたが、テオドールは基本的にこちらからの電話には出ないことに気づいてからは気兼ねなくかけている。着信履歴さえ残しておけば、きちんと折り返しはされるのだ。おそらく日々悪いことに勤しむあの男はスマホの着信など常にオフにしているだろう。特に俺からの連絡など緊急性が高いはずもない。
今日も適当な時間に折り返しがあるだろう、と思っていると、存外早くスマホが鳴った。一度気合を入れてから応答ボタンをタップする。
「ハイネ」
「お疲れ様です。今日は折り返しが早いですね」
「君の声を聞きたくてね」
「お客さんから、お店の写真とかをSNSに投稿したいと言われたんですが、そういうのは禁止した方がいいですか?」
口説き文句のような戯言はスルーしておくに限る。嫌そうな声を上げるだけでもあの男を喜ばせると既に学んでいる。
「うーん、いや、そこまでしなくていいよ。そういうのは歯止めをかけるにも限界がある。どうせ禁止したところで載せる客もいるだろうしね。禁止してこだわりが強い、みたいな印象を与えるのもどうかと思う」
「了解しました。じゃ」
聞きたかったことが確認できたのでとっとと切ろうとしたところで、珍しくスマホの向こう側から少し慌てたような声がした。
「要件は済みましたが」
「いいや、今日はこちらからかけようと思っていたんだ。今晩、少し早めにお店を閉められるかい?」
「…………何か用でも?」
明らかに警戒した声色になったことに気づかれ、喉の奥で笑う音がノイズのように入って来て舌打ちする。
「そう怯えないでくれ、君に何かするわけじゃない。店舗スペースを少し貸してほしいんだ。仕事の打ち合わせをするのに19時ごろから使いたい」
「……汚さないでくださいね」
「その予定はないよ。仲間と少し話をするだけ。……ああでも、君の紹介はさせてもらいたいから、最初だけ同席してくれるかい」
「悪い人の知り合いはこれ以上増やしたくないので嫌です。それじゃ」
問答無用で通話を切る。
この程度なら機嫌を損ねることはない、がおそらく拒否はできていない。十中八九、強制的に“悪いお仲間“の前に引きずり出されることだろう。その時テオドールは果たして俺のことをなんと紹介するつもりか。想像するだけで縁遠くなっていた胃痛が戻ってくる気がした。俺はこれ以上犯罪者と顔見知りになるつもりはない。万が一テオドールが逮捕されたとしても、ただの雇われ店長として知らぬ存ぜぬを貫きたい。
夜の7時、普段の閉店時間に店の前にいくつかの車が停められた。カウンターから窓の外を見ているとそのうちの1台から唯一知っている男が現れた。いつもより30分早めに「Closed」の札を提げたおかげで、店内の片づけはすでにほとんど終わっていて、いつでも居住区である2階へ撤退する準備はできていた。
「ただいまハイネ」
「……いらっしゃいませ、オーナー」
言外に「お前の家ではない」と伝えたつもりだが攻撃性が足りなかったようで、テオドールは毛ほども気にしていない様子だった。カランコロンと呑気な音と共に入店してくるのはことごとく見るからに悪いことをしていそうなスーツの男たちだった。小さな喫茶店とはまるで似合わない客に閉口する。彼らを連れてくるのなら前身のバーの方が似合うのではないだろうか。あまり仲良くしたいと思えるような態度と見た目ではないと早々に判断し2階へ撤退する。
「それじゃ」
「まあ少しだけだから」
逃げようとしたところで2階へつながる階段の前を塞がれ、片腕で首をホールドされる。そのままズルズルと悪い仲間たちの前へと引きずり出されてしまった。抵抗もできなくはないのだが、いかんせんテオドールとは対格差がある。身長だけとっても30cm弱の差がある上に、カフェで手首を締め上げられたときの握力といい、この男が柔和な笑顔を浮かべただけのフィジカルゴリラであることは把握している。ゆえに長い腕で首をホールドされるという現状は、次の瞬間には首を折られているかもしれないという恐怖と背中合わせだった。抵抗してもいい。だがこのフィジカルゴリラの手元が狂い、力加減を誤った場合、即死しかねない。もはや防衛本能として首に腕を回された時点で身体が恭順の意を示した。
「テオドール、そいつは」
「この子はハイネ、この喫茶店の店長だよ。先月捕まえたばかりの子でね。みんなよろしく。くれぐれも間違えたりしないように」
笑みを浮かべているのはこの場でテオドールただ一人だけで、悪い仲間たちは不躾に俺のことを眺めまわしていた。とても歓迎されている雰囲気でなく、一刻も早くこの場を立ち去りたいという思いが強くなる。けれどテオドールが俺を解放する前に彼のスーツのポケットから着信音が鳴りだした。一瞬だけ眉を顰めるが、2コール目には応答した。
日本語ではない言葉で返事をしながら、俺に回していた腕をほどいて仲間たちに待っているようにとジェスチャーをして店の外へと出た。
再び鳴る呑気なベルの音に血の気が引いた。
よりにもよって俺を2階へ逃がさないまま、反社会勢力構成員と思しき集団の中に残していきやがった。それも、とても友好的とは思えない奴等。
テオドールにやるように「それじゃ」と言って下がってしまおうかとも思ったが、それを彼らに対してやって許されるかどうかはまるで判断がつかない。いやむしろ一般的に言ってそんなことをすれば無礼と捉えられても仕方がない。上司が紹介したのなら上司が下げるまで俺はここにいるべきだろう。少なくとも上司が一時的に席を外したからと言って下がって良いはずがない。
俺の葛藤など素知らぬように、悪い仲間たちは俺にわからない言語で流暢に話し出す。英語すら苦手だった俺には到底内容は聞き取れないし理解できないのだが、不躾に何度も投げかけられる視線で、俺のことを話しているのはわかった。
とにかく目立つまいと思いながら直立不動でテオドールが出て行った扉を凝視する。下手な挙動で余計な興味や関心を引きたくはなかった。
「ハイネ、お前いくつだ」
「……30です」
俺の努力虚しく、座って話をしていた男がおもむろに席を立ち馴れ馴れしく肩を組む。こびりついたようなたばこの匂いに内心顔を顰めた。
「見えねえなぁ、二十歳そこそこかと思った」
「よく言われます」
一瞬以前の仕事のように愛想を振りまこうかと思い、やめた。絡まれるのは慣れているし、あしらうのもさして苦でもない。だがそれは相手に気に入られることを前提としての話だ。仲良くしたいとは到底思えない奴相手にその対応はリスクが高かった。
努めて無表情で、個人ではなくこの喫茶店の付属品としてやり過ごすことにする。
「あれに気に入られるなんて運が良いんだか悪いんだか」
「……あの人、どういう人なんです?」
「むやみやたらに頭の良い、イカれた奴さ」
相手に喋らせて時間を稼ごうという意図もあったが、僅かばかりの好奇心があるのも確かだった。あの男に捕まってから約一月経つが、人殺しの反社会勢力であること、自分のことを気に入っていること、そして名前程度しか知らなかった。関わりを持ちたくなくて特に質問もしてこなかったが、本人抜きで客観的なあの男の情報を聞けるメリットは大きかった。
「もともとイタリアだかフランスだかにいたらしいが、何年か前にファミリーと下部組織抱えて日本に来たんだよ。頭も良ければ金回りも良い。いくつも会社作ってるが警察に尻尾掴まれた試しもねえ。昔と比べりゃ異色だが、これからの時代は暴力なんて流行らねえんだろうな」
「外面も良さそうですもんね」
適当に相槌を打っておくが、すでに聞かなければよかったという後悔に見舞われていた。
あの男はイタリアンマフィア的な奴だったのだろうか。半グレやただの殺人鬼どころの話ではない。要するに外国のヤクザ屋さんということだろう。嫌な妄想が膨らむ。あれが単身でないということは今後こういった悪い仲間がここへ連れて来られることも頻回にあるのではないだろうか。
「意外と言うなぁ。お前あいつの情夫じゃないのか」
「じょ……」
投げつけられた不快極まりない単語に言葉を失う。テオドールはそのつもりで囲っているのだろうが、改めて言葉にされると虫唾が走った。無表情でいようとしていた努力虚しく、感情は顔から駄々洩れだったらしく男が呵々大笑する。
「あれに飼われてれば食うに困らんだろうし運が良いとも思ったが、お前にとってはそうでもねえか」
「好き好んで飼われてるわけではないので」
「何が不満だ。抱き方が荒いか。それとも遅漏か?」
「抱かれてません……」
「へえ、手ぇ出してすらないのか。珍しい」
眉間に皺が寄るのを感じる。不躾で無遠慮なやり取りに不快感がたまっていく。ひとまずこの男が俺に危害を加える意思はないことがわかればそれで良かった。いきなり殺されるようなことはなさそうな上に、他の連中もこの男の言葉を諫めることはしない。この悪い仲間たちはテオドールの部下というわけではないのだろう。
「男の経験は?」
「……ありません」
「ますます気の毒だ」
気の毒だなどと宣いながら肩に回していた手を腰に伸ばされ、手の甲を叩く。あからさまに機嫌を損ねたような顔をしたが、それと同時に呑気な音がしてテオドールが店内へと戻ってきた。
「待たせてすまなかったね。ところでお前は何をしている。その子に何か用でもあったかい?」
「なに、あんたの話をしてたんだ。ハイネはあんたの情夫なんざやりたくねえって」
「へえ」
薄く笑みを浮かべたままテオドールが灰色の目を向けてきて思わず身体を硬直させる。あの男はテオドールのことをイカれた奴だと知ったうえでなぜ喧嘩を売りに行くような真似をするのか。
「躾も必要なようだし、どうだ、うちに預けてみないか?」
「……お前のところに? なぜ?」
「あんたも手を出せないくらい反抗的なんだろ? おまけに抱かれた経験もないときた。俺が持ってる店の中に向いてるのもある。預けてくれりゃ躾て具合も良くして帰してやるよ」
まるで恩を売るかのように話す男に寒気がした。そしてその男がつい先ほどまで俺の肩を抱いていたと思うと吐き気がする。
全く表情を変えないテオドールはただ困ったように微笑んでいて否定も肯定もしない。全力でテオドールに視線を送る。絶対に俺を預けたりしてくれるな。こんな奴のところへ連れていかれるくらいなら、この店でテオドールとチキンレースをしている方がはるかにマシだ。
「ハイネ」
「はい」
「どう思う?」
「絶対嫌です」
「そう。良い子だ」
ずっと微笑んでいることに変わりはない。けれどこの短いやり取りでテオドールの機嫌が上向きになったことがわかった。この不躾な男の妖しげな店に連れていかれることはなさそうだと少しだけ安心する。
さあ俺にとっとと2階へ行くよう言ってくれ、という願い虚しく、テオドールは男に話しかける。
「そういうことだ、この子はお前の所へ行くよりかは私のもとに居たいらしいよ」
「そりゃ残念だ。まあ飼い主がいるところでは話もしにくいだろうなあ」
「まあそれはそうと、お前はいつから人の持ち物に口出しできるほど偉くなったんだ?」
テオドールは鷹揚に歩み寄ると流れるような動作で男の首根っこを左手で掴んだ。バランスを崩した男が床に膝をつくのを少し後ろから眺めていた。そしてテオドールは懐から何かを取り出すと無防備な男の後頭部に押し付けた。
「もうどうでもいいのだけれど」
ドラマや映画の中でしか見ない造形の武器は、小さな音を立てて煙を上げた。床に血や何かわからないものが広がり飛び散る。テオドールが片手を離すと男の身体が崩れ落ちた。
「……は、」
あまりに非現実的な光景は先日見たものと同じだった。つい先ほど自立して歩いていた、生きていた人間が、糸の切れた人形のように地面に崩れ落ち、体液を垂れ流す。
店の真ん中で人が一人殺されたのに、誰もその異常性を認知していないかのようだった。まるで動揺する俺だけがおかしいかのように。
「おいテオドール。こいつを殺すのはこの店でじゃなかったはずだ」
「ああそうだった。すまない、ついカッとなってしまって。まあたった数時間、誤差のようなものさ」
「いやお前……まあいい。それよりお前、大丈夫かハイネ」
内容が入ってこない会話の中で、自分の名前が呼ばれるのが聞こえた。全く働かない頭で、自分の名前を呼んだ者を確認しようと、動かなくなった血まみれの人間から視線を無理矢理剥がした。名前を呼んだのはテオドールではない。だがそれしかわからなかった。
「あ……」
「すまないハイネ。店を汚すつもりじゃなかったんだが、」
テオドールは邪魔なものを端に寄せておくように死体を蹴ると、いつもと変わらぬ足取りで俺に近づいた。こちらに伸ばされた手には拭い損ねた血が飛んでいた。
「来るなっ」
「ハイネ、」
そうだ、多少慣れたとしても、自分に殺意を向けないとしても、この男は殺人犯だ。殺したばかりの男をただ見下ろしていた、なんでもないように人の頭を銃で撃ち抜けるような異常者なのだ。
見えないから、見せないから忘れてしまっていた。
「テオドールやめろ、その子一般人だろ」
「ああ、そうだが?」
諫めるように口出しした男が立ち上がりテオドールを押し退けると俺の腕をとった。嫌悪感も恐怖感もなかったが、それがこの男が安全だと思ったのか、すでに判断能力が機能していないのかはわからない。
「大丈夫か? 見なくていい、気にしなくていい。家は2階か? 階段上れるか?」
「トーマ、それは私の」
「人の心のわからんイカレ野郎は掃除屋を呼べ。世話の仕方もわからんなら簡単に囲うんじゃねえ」
突き放すようにテオドールに言い捨てると、トーマと呼ばれた男は半ば抱えるように俺を2階へと運び、扉を開けて放り込むとすぐにまた1階へと降りて行った。遠ざかっていく足音を聞きながら床へと倒れ込む。
何も考えたくなかったし何も考えられなかった。力なく崩れ落ちた死体の様子が網膜の裏から剥がれない。
日常になりかけていた新しい生活は、再び非日常に引き戻された。
こみあげてくる吐き気を堪えながら、歯を食いしばる。犯罪者であることはわかっていたはずだ。そしていくフロント企業の一部だとしても、その片棒を担ぐ可能性は十分にあると理解していたはずだ。そのうえで、命と天秤にかけて選択したはずだった。だがおそらく、俺は本当に理解していなかった。いや、想像できていなかったというのが正しいだろう。善良な一般人である俺が想像できる範囲などたかが知れている。
「くそったれ……」
今も階下にいるだろう殺人犯たちと、捨て置かれたまま端に寄せられた肉の塊に総毛だつ。細く息を吐きながら瞼を下ろすと、気絶するように意識が遠のいていった。




