18
通りに面した大きな窓からは桜の木がよく見える。カプラへ連れて来られてからまるで気づかず、開花して初めてその存在を知った。普段から奥のテーブル席を定位置としている常連も、今は桜を眺められる窓際でくつろいでいた。
「スコーン、何か変えましたか?」
あまりおしゃべりでもない初老の男性客からそう問われ虚を突かれる。
「ああ、小麦粉を変えたんです。調理師の友人からいろいろアドバイスをもらって」
「なるほど。しばらく休業していたのはメニューの開発だったんですね」
「ええ、他にもいろいろ変えましたよ。小麦粉とか、砂糖とか。まだまだ研究中ですが」
「扉が養生シートで覆われてた時はまたお店がダメになっちゃったかと思いましたが、ただの営業再開していて安心しました」
穏やかに笑う常連はカプラのすぐ近くに住んでいる。きっとここの店がころころと姿を変えるのを眺めていたのだろう。もしかしたら、店が潰れる理由が営業不振だとかそういう類のものではないと気が付いているかもしれない。
けれどそれきり口を閉ざし、いつものように紅茶を口にする彼に敢えて聞く必要はない。おそらく、聞かない、言わせない方がいいとわかっているのだろう。
俺は物静かな常連を失うのは残念に思うし、彼もまた気に入った小さな喫茶店がなくなることは望んでいないだろう。
常連客が店を出てすぐ、控えめに玄関のベルが鳴る。
「中学生はまだ授業の時間じゃないか。ここに来るまで補導されなかったのか」
「……中学生は流石に言いすぎだろ、ハイネ」
「二度と俺の前に姿を見せない、じゃなかったのか、ユウゴ」
普段の彼なら間違いなく店を揺らすほどの怒声を挙げるだろうに、おずおずと店の中に入って来たユウゴは低く唸るだけだった。気まずそうにカウンターの腰かけると紙袋を俺に差し出した。
「なんだ?」
「詫び。その、騙してて、悪かった」
目を合わせられず、そっぽを向きながら紙袋を差し出すユウゴはどこから見ても反抗期の中学生だった。これが自分より年上だというのだから、不思議だ。
「はは、騙して悪かったって言うならまず名前を名乗れよ。ルドルフだって初対面の時はフルネームで名乗ったぞ。お兄ちゃんはそんなこともできないのか」
「……ウーゴ・カデンツォ。ロドルフォ・カデンツォの兄だ」
「ウーゴ?」
「本来の読み方なら! 他国にいるときはユウゴの方が発音しやすいから、ユウゴと名乗ってる」
聞きとがめたつもりがあったわけではないが、偽名を名乗ったわけではないのだと弁明するように言葉を重ねた。
「そうアンタと関わるつもりじゃなかったんだ。その、テオドールから話は聞いていたが、懐柔するようにだとか、そういう指示が出されていたわけでもない。あの時、アンタの前で荷物をぶちまけたのも気を引くためじゃない、たまたまだ。たまたま俺が変な奴にぶつかられて、たまたまアンタが俺に手を貸そうとしただけだ」
だんだん声が小さくなる。小柄で童顔な見た目も相まって、憐みを誘うがわざとではないのだろう。少なくとも、ユウゴはその見た目を利用することを嫌う。少なくとも俺が知ってるユウゴなら。
「牛、豚、鶏どれも駄目な弟。肉がダメとは言わなかったな。自分自身も村を出てから初めて牛を食べた」
「……」
「君も人喰いか」
「俺は、牛のが好きだよ」
目を逸らしたままユウゴは低く呟いた。
思えば気が付く要素はいくらでもあった。思い返してもユウゴは嘘を吐いていない。複数の情報を伏せていただけだ。そして察しの悪い俺が気付かなかった、それだけの話だ。
「俺はたぶん、他の人間に紛れて暮らすことは、できる。それなりに器用だし、食生活だって縛りはない。……でもルドルフは馴染めない。“敬虔”なんて仮面被って人を喰うイカれた両親の思想に従順だった。あいつは食材が手に入る環境じゃないと生活できない」
ルドルフと同じ赤い目が俺を見上げた。
「だからボスに着いて日本まで来た。どこに行っても、あの人の下にいれば喰いっぱぐれることはない。……アンタが、暴力だとか、殺しだとかを嫌ってるのは、知ってる。軽蔑されるとも、わかってる」
覚悟があったのだろう。むしろユウゴはおそらく件の村にいた時から罪を罪と認識していたのだろう。だから既に死んだ両親のことをイカれたなどと表現できる。だがルドルフはそうでない。人を食べることを信仰だと考え、他人から拒絶されることだと知りつつ、変わることができない。
そしてユウゴはルドルフがそうである限り、共に罪を重ねるのだろう。
「それでも、俺は、アンタの友達でありたい」
「いいんじゃないか」
紙袋を開けると中にはウィークエンドシトロンが入っていた。芸術的なまでに均一にグレーズを纏ったケーキは美しい。甘酸っぱいこれに合う茶葉は何だろうかと逡巡していると顔を凝視されていることに気が付いた。
「いいって、アンタ……俺、人殺しだぞ。人喰いだぞ。人間のことを食材って言ったんだぞ」
「そうだな。これはルドルフにも言ったことだが、俺は他人様の食生活に口出しする立場にはないし、罪を裁くことを生業にしているわけでもない」
「でも、」
「行き場のない兄弟利用して連れまわす、イカれた人でなしがオーナーの店で雇われ店長してるんだぞ。今更その程度のことでガタガタ言うわけないだろ」
「……ボスは、アンタが潔癖だって」
「目の前で死体解体し始めたり喰い始めたりしなきゃ気にしない。テオドールは俺の目の前で殺しをするから嫌なんだ」
俺の目の前で行われていようがなかろうが、それが罪であることも、嫌悪されるべきことであるとも知っている。だがそれはもはや今更の話だった。
「どれも、許されざることだとは知ってる。でも俺は裁く権利なんて持ち合わせない。俺にとってユウゴは俺とくだらない話をする友人で、お菓子の作り方を教えてくれる先輩で、窮地を救ってくれた人殺しだ」
「……嫌味か?」
「事実の羅列だ、人喰いの人殺し。ワゴンで追手を撥ね飛ばした姿はまさしく救世主だった」
「イエスに十字架で殴られそうな誉め言葉だ」
「そんなことより、これの作り方を教えてくれないか」
「……まだ味も知らないのに?」
「ユウゴが詫びに持ってくるケーキが旨くないはずがないだろう?」
泣き出しそうな顔でユウゴは頷いた。
今日も今日とて客が少なかった。平和で、穏やかで、暇。だがそれも日常だ。既に「Closed」の札がかけられている扉が開けられ、ベルが来客を知らせる。
「もう今日は店じまいですよ」
「そうかい、オーナーが店舗の様子を見に来るときくらいは甘く見てほしいな」
「時間外手当を求めます」
「好きにしてくれて構わないよ」
カウンターの席、一番端がテオドールの定位置だ。相手もせずレジ締めをする俺もただニコニコしながら眺めている。
「俺を眺めてるのは楽しいですか」
「楽しいよ。君が真面目な顔をしていて可愛い」
「あんたは俺が何をしていても可愛いと思うんでしょう」
「わかってきたじゃないか」
軽口をたたきつつも、テオドールは大人しく作業が終わるのを待っている。こういう彼を見ていると、既に磨かれたグラスをもう一度磨いてこの時間を長引かせたくなる。もっとも、行動に移せばことごとく看破されてしまうのだが。
「愛されている自覚を持つ子は愛らしい」
「俺ではなく?」
「ふ、」
「自覚を持つ子が愛らしいんですか? 俺が愛らしいんですか」
「じゃあ言い換えようか。愛されている自覚を持って口にする、君がとても愛らしい」
「それでいい」
何を口にすれば、この男の機嫌がよくなるか、よくわかっていた。目も合わさず、こんなことを言うだけで、胡散臭い笑み嬉しくて仕方がないという笑みに変わるのだ。
俺の作業が終わるまで大人しく待っている、というポーズをする人殺しを横目で眺めつつ布巾で洗ったばかりの皿を拭く。
「今日はユウゴがここへ来たらしいね」
「あんたのところに報告が?」
「あの子は律儀だからね。細かく報告をくれるよ」
「口出しする立場ではありませんが、あまり虐めてくれないでください」
「それは君の態度次第かな」
「テオ、玄関の鍵かけておいて」
「A vos orders.」
「なんて?」
何語かもわからない言葉で返事をしたが、従順に戸締りをしてくれるあたり、了解だとかそう言った返事だったのだろう。わざわざ彼が和訳しないときは、大した意味などなかったりする。伝えたいことがあれば、伝わるように話す男だ。
「ケージ」
「ん」
「ケージ、ケージ、ケージ」
歌うように名前を呼ぶ男を無視して食器を棚へと戻していく。ほんの少し、いつもよりたどたどしく。
「こっち向いてケージ」
「大人しく待っていてください」
「じゃあ私が大人しく待っているうちに傍へ来てくれ」
低く囁くように言うテオドールに、からかうのもこれくらいにしておこうと振り向く。引き際を誤れば痛い目を見るのは自分の方だ。
黒いティーキャニスターを開けるとチョコレートに似た甘い香りが漂う。アッサムの茶葉をポットへ入れて、湯を注ぐとより一層甘い香りが匂い立つ。それを閉じ込めるようにふたをして、食器棚の奥から一揃いのティーカップを出す。店に出すものではなく、自身にはこれを使うようにとテオドールが置いていったものだ。白磁に赤の彩色、金縁の入ったそれは自分で紅茶を飲むだけなら絶対に繊細過ぎて使わない。だが彼は日常を特別にすることが人生を豊かにすると笑う。美しいカッティングのワイングラスも、アンティーク調の銀食器も。日常を飾る何かを見つけては宝箱に隠すようにここへ置いていく。
「ミルクは?」
「今日はいらないよ。そのままでいい。それより」
焦れたようにこちらを見上げるテオドールの前に、カップを置き、ポットから琥珀色の紅茶を注ぐ。どうしてか彼は紅茶を注いでいる間だけは口を閉じ、ひどく大人しくなることを知っていた。そして多分、彼にその自覚はない。湯気と共に立ち上る甘い香りに目を細める姿はネコ科の動物のようだった。
二つのカップに紅茶を注いで、カウンターから出ると当然のように手が伸ばされる。
「ケージ」
「はいはいあなたの大好きなケージ君ですよ」
「君、いい性格になったよね」
「おかげさまで。嫌なら手を離せ」
「まさか」
大人しく手を引かれ、そのまま腕の中に収まる。仕立ての良いスーツからはアンバーの甘い香りがした。背中に回された腕に力が籠められる前に全力で身体を引きはがす。
「70点」
「何がダメだった?」
「煙草臭い」
「私は吸ってないよ」
「じゃあ近くにいた誰かだな。ご愁傷様」
「匂いには気を付けていたはずなんだが……。君は本当に鼻がいいよね。君が嫌いそうな臭いは避けたつもりだが」
「ここに生臭い話はいらない」
顔を顰めるとテオドールは困ったように笑った。
俺は人を裁く立場にはない。誰かを糾弾するほど大層な人間でもない。血の匂いも硝煙の残り香も暴力の気配も、ただ俺が嫌いなだけだ。否定はしない。拒否はしない。だが一方で認めはしない。肯定はしない。それが俺がぎりぎり保っていられる彼らとの距離感だった。少なくとも俺は、自分の目に見えない場所で重ねられる罪に、気づかないふりをできる悪人だったらしい。
「ここは紅茶を楽しむための場所だ。悪だくみをする場所じゃないし、告解の場でもない」
「知ってるよ。ここは君のお店。君のいる場所に悪意も暴力も似合わない」
「じゃあその権化のあなたはお帰りください」
「意地悪言わないでくれよ。そんなことを言われてしまうと“らしく”振舞いたくなるだろう?」
大きな手が顔に触れ、引き寄せられる。
「っ……今の悪意と暴力ですか?」
「私にとっては好意と愛情。だが君にとっては悪意や暴力とさして変わらないだろう」
一瞬テオドールが何を言っているかわからず目を瞬かせた。この男は未だに自分の愛情表現が相手にとって暴力であると思っているのか、と。悪意と暴力の権化のような男が、幾何かの善性や常識を覚えようとするとこうも的外れで哀れなことになるのか、と笑った。
「ケージ? 何か私は間違って、」
「いいえ、テオ」
俺が手を伸ばせば、驚いたように灰色の目を見開いた。いつも余裕の表情ばかり浮かべる彼が、不意を突かれたような顔をするのは気分が良い。笑みを浮かべてばかりの薄い唇に自分のものを重ねると、微かに甘い香りがした。音もなく唇も手も離し、呆然としたままのテオドールの隣に座る。
「紅茶、早く飲まないと冷めますよ」
「……え、君、今のは」
飲みやすい温度まで下がった紅茶を傾ける。渋みが少なく、口当たりもまろやかでこれだけでデザートの役割も熟せそうなほどに甘く香る。
「悪意と好意、どっちだと思います?」
にんまりと笑ってやると、音も無く口を動かしてから結局何も言えずに口を引き結んだ。肌が白いと紅潮したときわかりやすくて損なものだと喉の奥で笑う。拗ねた顔を似た顔でこの男は照れるのだと、また一つ化け物じみた男の人間らしさを知った。
「……君は、馬鹿だ。私にそんな選択肢を与えて」
「馬鹿はあんたの方だ。いつまでも俺があんたのことを嫌っていると思ってる」
そう口にすれば想定通りの反応をするから、どうにももうこの男を憎めそうにはなかった。
せっせとこの場所に自分の好きなものを集めて置いていくこの男が、どうかここを手放せなくなるようにと呪いながら、愛の賛歌の別名を持つ紅茶を飲み干した。




