17
手元に戻って来た鍵を握る。心底申し訳なさそうな顔をしていたユウゴから受け取った鍵。俺がもともと住んでいたアパートの部屋の鍵だ。
1週間ぶりにセーフハウスから出る俺を、ユウゴがバンで送っていった。以前乗せてもらった車と違うことに気づき口にすると「壊れた」とだけ言いづらそうに返って来た。車内に流れるフニクリフニクラの軽快なメロディーに反して、俺たちの間に流れる空気は重かった。
「騙してて、本当に悪かった。もう二度と、アンタの前に姿を見せない」
振り絞るようにそう言って、ユウゴは深々と頭を下げた。
一人のアパートの前に残され、俺は緩慢な動きで部屋へと向かった。結局テオドールに買収されることもなかったアパートは以前のままで、扉を開けた数か月ぶりの部屋はいっそ気味が悪いほどに記憶の中のままだった。
テオドールは何もかももとに戻すと言っていたが、本当に、あの日俺が出てきたままの部屋だった。連れていかれた先に持って行った荷物もすべて元に戻されている。一歩部屋に入ると、匂いだけどこか違う気がしたが、すぐにカプラでの匂いに慣れていて違和感があるのだと思い当たった。ここには紅茶の香りも、焼き菓子の香りもない。俺が一人で暮らすためのものしかない。
ふと思い出して、小さな引き出しに歩み寄る。元々装飾品を身に着けることがほとんどなかった俺が、その引き出しに入れるものと言えばタイピンと腕時計くらいだった。そこを開けると、勤め人時代に使っていたタイピンと時計しか入っていない。この場所に、テオドールが贈ったペンダントが入っていたはずだった。シルバーのシンプルなドッグタグ。
「これで君がどこかで殺されても、体の帰る先がわかるね」
いつもと変わらぬ笑顔で、ひどく悪趣味なことを言いながら無理やり首にかけてきたもの。
部屋はまさしく、元通りだった。俺が奴に会う前の通り。
奴から贈られたこまごまとしたものは、すべからく姿を消していた。
その几帳面さに嘆息すべきか、神経質さを鼻で笑うべきかもわからず、乾いた笑いだけがこぼれた。その掠れた笑い声に反応する者は誰もいない。
きっとすぐに、元勤めていた会社からの連絡が来るのだろう。退職したのではなくまるで休職でもしていたかのように復職の連絡が来て、数日もしないうちにまた以前と同じように働き始める。働いて働いて、休みの日は家に引きこもって、また働いて。そうして俺は、普通の平和な暮らしに慣れ戻っていくのだ。あの3か月程度の生活は悪夢として、いずれ薄れ、消えていく。白昼夢のように、一時の非日常は、日常の中に溶けていく。いつか俺はそこで出会ったイカれた男たちのことも忘れるのだろう。
きっとそれが幸福なのだ。安全で、平和で、普通。
だがただ一人、ここでその平和を謳歌することの魅力がもうわからなかった。
馬鹿なことをしているとわかっている。それでも足を止められなかった。人波に流され、電車に揺られ、窓から差し込む夕日を眺める。川沿いには桜が植わっていて、惜しみなく咲き誇っていた。
冬は終わり、春が来た。
コートや手袋を仕舞われ、硬かった蕾は花弁をほころばせる。草木は芽吹き、人は新たな生活を始める。終わりと始まりの季節だ。悪夢は終わり、眠りから覚める。
夢から覚めた俺は自由になった。
だから俺は、自分で選択するのだ。
見慣れた街並みを歩くと、ランドセルを背負った子供たちや制服を着た高校生とすれ違う。見慣れた日常だ。そこにもう違和感も感慨もない。
1週間ぶりに見るカプラは何も変わっていなかった。叩き壊されたはずのガラスの扉はすっかり修繕されている。
深呼吸して、鍵穴に鍵を突っ込むと、なんの引っ掛かりもなく当然のように扉は開いた。
「……馬鹿だな」
鼻先を紅茶の香りがかすめた。
いつの間にか眠っていたようで、肌寒さに目を覚ました。もう3月の末だが、夜ともなると冷え込んだ。椅子に座りカウンターに凭れてうたた寝していたせいで肩や背中が痛い。とうに差し込んでいた夕日も沈み、明かりも暖房もつけられていない店内はまるで世界から切り取られたように静かだった。
「なに、してるんだい」
満たされた静謐さを乱すように、掠れた低い声が、立ち尽くした男から発せられた。
「いつからここにいたんです?」
テオドールは返事をしなかった。ただ微動だにせず、俺のことを見下ろしていた。のんびりと上着のポケットからスマホを取り出す。目に痛いほど眩しい液晶には23時50分と表示されている。どうも4,5時間ここで眠ってしまっていたらしい。いい大人のすることではないなと、苦笑する。そして目の前の男は、眠っている俺をいったい何時間眺め続けていたのだろう。もはや無関係となった俺を、起こすことも、追い出すこともなく。
「まあ座ってはどうですか。いつまでもあんたを見上げていると首が痛くなる」
「……ここは、もう君の店ではないよ」
「座って。俺の言うことが聞けませんか」
「……なぜ、君の言うことに私が従うと?」
「可愛くて大好きな俺のお願い、聞けませんか?」
まるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、それから何一つ文句も反論の言葉もないまま、テオドールは素直に俺の隣の席へ腰を下ろした。
「どうして、君がここに」
「あんたに会いに」
「私が、今日ここへ来るとは限らない」
「いえ、俺がここにいれば来るでしょう、あんたは」
明かり一つない室内で、灰色の目が俺をまっすぐ捉えていた。馬鹿だな、と口の中でわらった。
「俺にGPSだがなんだかつけてるんでしょう。だから俺がここから逃げ出した時も、この前薬物を持ったまま追われてた時もすぐに俺の居場所が分かった。靴か財布、あとはアプリか、そんなところじゃないですか。いつも通りの恰好をしてここへ来れば、必ずあんたはここへ来る」
「…………靴とアプリだ」
「なるほど、二段構えでしたか」
要求するように突き出された掌の意味がわからないふりをしながら、その手を指で撫でた。
「伝えたはずだ。私が君の側にいると、君のことを傷つけてしまう。だから君を遠ざけて、」
「なら俺をアパートへ帰す前にGPSの類は外しておくべきでしたし、カプラの玄関の鍵も修理のついでに替えておけばよかったでしょう」
不満を表すように、掌に爪を立てた。
「中途半端な自己満足。自分本位で一方通行。実にあんたらしいと言えばあんたらしい」
「灰音、」
「俺の願いを聞いてくれないあんたの願いを、俺が叶えてやる道理があると思いますか」
遠ざけると言いながら、触れた手を振り払うこともできず、真正面から見据える俺から目を逸らすこともできない。
「馬鹿な人だなあ」
もうわかっていたはずだった。倫理観も道徳観念も持たないこのイカれた人殺しは、恐ろしい。けれど恐ろしいばかりではない。俺に軽蔑されたくなくて、右往左往してしまうような男なのだ。
「テオドール。俺を遠ざけるなら今すぐこの手を振り払い、出て行けと言えばいい。あんたが得意な暴力を見せつけるのもいい」
「…………すまない」
ため息とともに吐き出された言葉はかき消されそうなほどにか細かった。
「私には、できない」
「できないなら、他に言うことがあるでしょう」
そう促し掌を撫でるが、テオドールはまるでわからないとでも言うように目を瞬かせた。まるで子供のような反応に口の端だけで笑う。
「人に何かしてほしければ、口にしないと伝わらないものですよ」
「君は、私が希えば、応えてくれるのかい?」
いつかに聞いた言葉だった。あのときテオドールは「答えを待ったところで否定しか出てこない」と言い切り、俺の返事を待つことはなかった。けれど今の彼は大人しく、ただ俺を見つめ答えを待っていた。あの時と違って、自信があるから待っているわけではない。戸惑いと怯えの隙間に、捨てきれない望みがある。それがあるから、割り切って諦められないのだ。
「さあ? あんたが何を願っているのか、わかりかねるもので。……ただ一つ確かなのは、何も口にできない意気地なしにくれてやる視線も関心もないということです」
灰色の瞳をじっと見つめる。この何者にも恐れられるこの外道は、今俺のことが恐ろしく仕方がないのだ。
「私は、君が嫌悪するような人間だ」
唇が微かに戦慄いた。
「罪を罪と思わず、人を人と思わず、他人の心も理解しえない。手段を選ばず、命を軽んじ、奪うことに躊躇いもない。私は嫌悪されるべくして、嫌悪されている。他人からそう思われてしかるべきだと、おおよそ自覚していた。けれどハイネ、君に会ってから私は、」
「テオドール、簡潔に」
懺悔のような口上を断ち切る。今は煙に巻くような余計な飾りも、こねくり回された理屈もいらない。
テオドールは目を泳がせ、落ち着かないように息を吐いて、それからもう一度俺を見つめた。
「私は、君を幸せにはできないかもしれない。けれど、君に傍にいてほしいと、そう願っている」
希う言葉と共に握られた手は、簡単には振りほどけないほどに固かった。そういえば、初めてこの男と言葉を交わした時にも、逃げ出さぬようにと強く手を握られた。あの時と違うのは、俺が今本気で振りほどく素振りを見せたなら、彼は俺を見送って、そして二度と追いかけることがないということだ。
「私の傍に、いてくれないか」
「まあ及第点ですね」
握られたままの右手を持ち上げ、されるがままとなった彼の手の甲に軽くキスをした。
「ハ、ハイネ」
「ご褒美です。……不満でも?」
戯れのようなスキンシップだというのに、テオドールの顔は暗闇でもわかるほど紅潮していた。
「ただ勘違いしないでください。俺は今後もここにいます。元のアパートにも職場にも帰りません。ですが別にあんたのことが好きなわけではありませんし、あんたのものになるわけでもありません。ただせっかく居心地よくなった場所を大人しく出ていく気にはならないというだけです」
「ハイネ」
「なんです」
「愛してる」
脈絡なく思わず零れ落ちたような言葉に思わず口を噤んだ。言葉もなく、嬉しいという感情を惜しみなく表現することができるものなのか、と。俺のことしか見えていないというような灰色の目。こみあげてくるものの正体がわからないまま、ため息とともに吐き出した。
「……啓治」
「ケージ?」
「俺の名前です。ハイネは苗字。あんた、誰でもファーストネームで呼ぶくせに、俺のことだけ苗字で呼ぶ」
「…………ハイネは音が良かったから。名前で呼ばれたくなった?」
「調子に乗らないでください。名前で呼んでも許してやるって言ってるんです」
握られたままだった手を振り払おうとするが、まるでびくともしないことに気が付いた。先ほどまでのしおらしさはどこへ行ったのかと睨みつけるが、少しも堪えた様子はない。むしろ先ほどよりもずっと機嫌が上昇しているように見える。そして相対的に俺の機嫌は悪くなる。
「離せ」
「離さないよ。嫌じゃないだろ? これからの私の傍にいてくれるんだ。そのうえキスまでしてくれた」
「あれはただの施しです。あんたに手を握られるのは拘束されているようで気分が悪い」
「ケージ」
力任せに手を引っ張られ、身体のバランスを崩すと目と鼻の先にテオドールの顔があった。いつもより少しだけ上機嫌な、いつも通りの不敵な微笑み。
「……私の傍にいて、拘束されないと思った?」
「テオド、」
「一度は逃がしてあげたのに、自分から戻って来て私の手を取るなんて、君は」
「愚かだって?」
「まさに」
「それはあんたの方だろう」
反論を待たず、形の良い高い鼻に噛みついた。




