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「おいで、着いたよ。とりあえずはしばらくここにいると良い」
テオドールがポケットから出したスマホを扉に翳すと、軽い音を立てて鍵が開いた。セーフハウスとして案内されたそれはいたって普通の一軒家だった。住宅地という背景の一部でしかないこの家が、まさか反社の隠れ家だとは誰も思わないだろう。外を歩くのと変わらない足取りのテオドールを追う。
「あまり使っていない家で、掃除ができていないのは悪いと思ってる。ここは君の好きに使ってくれて構わない」
「テオドール」
明かりのつけられた部屋は整然としており、生活感がないことがわかる。傍の棚の上に薄らと埃が積もっていた。
「しばらく不安かもしれないが、夜明けにはユウゴとルドルフにここへ来るように伝えておく。二人が来るまでは決して扉を開けてはいけないよ」
「テオドール!」
こちらを見ようとしないテオドールの腕を掴み強く引いた。それなりに力を込めていたのに、奴が踏鞴を踏むこともない。
「……ハイネ?」
「俺の話を聞け!」
テオドールは目を丸くして、それから口をきゅっと引き結んだ。
「さっきも聞いたが怪我は!」
「ないよ」
「本当に!?」
「本当さ」
「両手を頭の後ろに回せ!」
困った顔をしながらもテオドールは大人しく従った。ガタイのいい身体をバシバシと叩くが、痛がる様子はない。明るい場所で改めて見ると服は血まみれだったが、どれも返り血のようだった。
「……この後の予定は?」
「事後処理を。今夜はいろんなところでいろんなことがあった。けれど明日、何も変わらない朝を迎えるためには、やることが多い。片付けの手配から……君の嫌いなことまで」
自嘲するようにわざとらしく上げられた口角に眉を顰めた。言わなくても良いことを敢えて口にするその意図を図りかねた。
「……何なんです? 拗ねてでもいるんですか?」
「拗ねてる? そんなことはないさ」
相変わらず目を合わせようとしない。背の高いこの男と視線を合わせるためには、奴がかがまないといけないのだと初めて気が付いた。ぐ、と腕を引く。
「なんで俺と目を合わせないんですか」
「……君に、合わせる顔がない」
視線の先は変わらない。けれど俺の手を振りほどくようなことはなかった。
「ハイネ、君の方から私に触れるのは初めてじゃないか?」
「まあそうですね」
脈絡のないただの感想にも似た問いかけに胡乱げに見上げた。だがテオドールに気にした様子はない。
「君と過ごした時間は決して長いものではなかった。だが私にとっては日々が華やぐようだったよ」
「……おい、何言ってんだアンタ」
「君の元居たアパートはすぐに住めるようもとに戻しておくよ。今の家の荷物もすぐに運ばせよう。それから仕事についても。人間関係等々も考えればそっくりそのまま元通りとはいかないが、極力、君がいた時の通りになるように掛け合おう」
「テオドール!」
声を荒げると、腕を掴んだままだった俺の手を引きはがした。ようやく灰色の目が、俺を見た。テオドールは笑っていなかった。
「私の認識が甘かったんだ。欲しかったから、傍に置いて、愛らしかったから愛でた。でもわかった。それだけじゃない」
テオドールは引きはがした手を一度だけ撫でて、離した。
「君に嫌われるより、君に軽蔑されるよりずっと、君が傷つくことが恐ろしい」
いつも強引に、無遠慮に触れてくるのに、頬へ伸ばされた右手は、触れることなく重力に従い落ちた。
「君を大事だと思ってしまった。大切にしたいと思ってしまった。……わかったよ、君のことを大切に思うなら、君のことを手放すべきだって。君を一番傷つけるのは、きっと私だ」
テオドールは下手くそに笑った。
「私はきっと、君に会って初めて、愛するということを知ったんだ」
いつものきれいに取り繕われた微笑みではない。いつもの飄々とした声色じゃない。
「そして私は、誰を愛するということが不向きであるということもね」
みっともなく、浅ましく、ただ自身を冷笑するしかできないこの男は、身体ばかり育ちすぎた人間の子供に見えた。
「私は君の前から姿を消そう。君がもとに生活に戻って、安全が確認出来たら、ユウゴとルドルフも、君の嫌う暴力を携えた人間が現れることはないだろう。君は、善良な罪なき一般人だ。暴力も血も、似合わない。君の時間を奪い、平穏を破壊したこと、心から謝罪しよう。すまなかった。だがこれでもう君が妙なことに巻き込まれることはなくなるだろう。どうか三か月、君は悪夢を見ていたのだと、そう思ってくれ」
踵を返し、扉へと向かう。
いつも、奴の背中を見ると安心した。今日はもう絡まれない。少なくとも暴力を振りかざされることも、巻き込まれることも、正体不明な思慕をぶつけられることはないと、せいせいしていた。そんな俺でも、今の彼がいつもと同じでないことくらいわかる。テオドールはきっと、このまま姿を消して、二度と俺の前に現れないだろう。
俺は、自由になる。
平凡でも、平和な日常に戻れる。マフィアやヤクザに絡まれることもなければ、理不尽な要求に眉を顰ませることも、食人鬼に苦笑いすることも、嘘つきな隣人と馬鹿な話をすることもなくなる。
テオドール・セルパン。俺はこの男が好きじゃない。
暴力を振るうのに欠片の躊躇も見せず、常に何を考えているかわからない笑みを浮かべている。人の平穏を踏みにじり、脅し、閉じ込めた。恨み、辛み、怒りはある。嫌悪し、軽蔑した。それは紛れもない事実だ。その事実は決してなくならない。
「……ハイネ? どうかしたかい?」
遠ざかろうとする背中、俺はジャケットの端を掴んだ。乾いた血が剥がれ、床に落ちた。
「違う」
ようやく口から出た言葉は要領を得ない。考えていることはたくさんあるのに、それを適切な言葉として出力できなかった。
「俺は、アンタが好きじゃない」
テオドールは振り向かなかった。だがそれでよかった。足さえ止めてくれれば。
「俺はアンタが怖い。常に何を考えているかわからないし、理不尽だ。暴力的で、人の心がわからないし、良識もない。ルドルフだって人当たり良いくせにいかれてるし、人間食べるし、普通なら関わりたくない。ユウゴは良い奴だった。でもずっと俺のことを騙してた」
並べ立てていけばろくでもないことばかりだ。嫌って当然、怒って当然だ。それでもこの頭のおかしな男の足を止まらせたいと思ってしまうのは。
「でも、嫌いじゃないんだよ」
それだけじゃないからだ。
嫌なこと、恐れたことを挙げていけばきりがない。だが恨んだこと、怒ったことがなくなりようのない事実であるように、悪くないと思ってしまった時間もまた、あるのだ。
「ルドルフは誠実だった。根本的に忌避感を理解してなくても、寄り添おうとした。ユウゴは親切だった。ずっと俺にアンタの仲間だってことを隠していても、くだらない話をして、店に来て、愚直にアドバイスをしてくれた」
人食いの男と嘘つきな兄。避けて当然だ、嫌悪してしかるべきだ。
「……テオドールは最悪だった。いきなり殺人現場に遭遇させられて、日常も尊厳も全部壊した。お気に入りのぬいぐるみを手元に置きたがる子供みたいに、俺の人格を無視して……常に一方的だった」
最悪だった。紛れもなく悪夢だった。ただ不運であっただけの俺が、なぜこんな目に遭わなければならないのか。いつになれば逃げられるのかと考えていた。
なのにいつからか、決して自分では選択しないであろう異常が、日常になっていた。小さなカフェでのんびり働いて、気まぐれにお菓子を作って、紅茶の茶葉と淹れ方を勉強する。それまでの自分なら唾棄するようなその日常を、俺は悪くないと思っていた。
「頭がおかしくなりそうだった。目の前で人が殺されることも、その罪悪を理解しないその不道徳も。生臭い暴力を匂わせることも、理解できない思慕を押し付けてくることも、最低だった」
最低だった。それが事実だった。
それでも日々は、侵蝕される。日常は姿を変え、常識は希釈される。
そうしてとうとう、俺の頭はおかしくなってしまった。
「なのに、アンタと店で過ごす時間を、いつからか悪くないと思ってた」
怒り、羞恥、戸惑い、執着、一言では到底表現しがたい言葉が湧き上がってくる。
こんなことを口にしたくない。こんなことしか口にできない。
俺は普通だったはずだ、と怒りのままに叫びたくなる。俺はどこにでもいる人間で、自立した成人男性で、良識も常識もある、まともな人間だ、と。
「アンタの笑顔以外の表情を見ると胸がすっとした。口喧嘩で遣り込めるとおかしかった。俺が作ったものを大人しく食べたり、閉店時間まで黙って待ってるのも。クズなのに、犯罪者なのに、人殺しなのに……あの時間が嫌いじゃないって、思った」
握り締めたジャケットをみて、皺になってしまえと思った。
「なあ、アンタが俺をおかしくしたんだ。だから、」
口にすべきじゃないとわかっていた。口にしたら本当に、後戻りできなくなる、元の自分には戻れなくなると予感していた。
それでも、言わなければきっと、俺はずっと後悔することになると確信していた。
この悪夢と呼ばれた時間を、手放したくなかった。
「今更俺の側からいなくならないでくれ」
血に汚れたその背中にしがみ付いた。




