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9話 辺境伯の悩み

夕食を終え、レオナルドは重い足取りで執務室へと戻った。

灯されたランプが机上の影を伸ばし、書類の山が静かに彼を待ち受けている。椅子に腰を下ろし、羽ペンに手を伸ばそうとしたその刹那――。


「旦那様!」


背後から静かながらも鋭い声が落ちた。執事のクラウスである。


「……何だ」


「何だ、ではございませんっ!」


老人特有のかすれを含みつつも、その声音には長年仕えてきた者だけが滲ませる苦味があった。

「またやってくれましたな、若様」という嘆息をそのまま声にしたような。


クラウスは先代の頃から屋敷を支えてきた人物であり、幼いころからレオナルドを見守ってきた。その分、遠慮も容赦もない。


「今夜もせっかくソフィア様が気を使って話題を振ったと言うのに、あまりにもそっけない返事。今夜の食卓ときたら……あまりにも味気なさすぎましたな」


ランプの炎に照らされた瞳が細められ、非難の色を帯びる。

レオナルドはわずかに眉をひそめた。


「……質問にはきちんと答えていただろう。なんの問題がある」


「大ありです! はいか、いいえでしか答えていない。あれでは会話になっておりません!」


クラウスは一歩前に出て、机に手を置く。


「会話が弾まないのは、旦那様がソフィア様を嫌っているからだと受け取られてしまいますぞ!」


「なっ、嫌ってなんか……!」


「旦那様がそう思ってなくとも、誤解されると言っているのです! いつまでもあの調子だと、ソフィア様もご不安でしょう。慣れない土地でお疲れなのか、心なしか顔色も良くなかったご様子でしたし……」


突き刺さるような叱責に、レオナルドの胸の奥が小さく揺れる。脳裏に、はじめて彼女と出会った光景が蘇った。


遥々と遠い地から辿り着いたソフィアが、ゆっくりと馬車を降りてきたとき。

差し伸べた自分の手に、彼女の手が重なった瞬間――そのあまりの小ささに思わず息を呑んだ。

白磁のように滑らかな指。折れてしまいそうなほど細い腕に、華奢な身体。そして、ミルクティーを溶かしたような髪が肩へ流れ落ちると、淡い光がやわらかく反射した。

華美すぎないが、仕立ての良さがひと目でわかる淡い色のドレスがよく似合っていた。


だが、決して儚いだけではない。繊細で優美、しなやかな気品を宿した佇まいがそこにあった。自分には勿体ないほどの美しい女性だった。


しかし、こちらを見上げた瞳の奥には、不安の色が見てとれた。

新たな地に嫁ぐ花嫁なら当然だ。だが、自分の武骨さ、粗野さを思えば、彼女を怯えさせてしまったのではないか、そんな疑念が胸に広がる。


だからこそ、初日の夕餉では少しでも警戒を解いてもらおうと思っていた。無用な重圧は与えず、安心してもらえるようにと。


――なのに、結果はどうだ。

ただ必要な事柄を告げ、彼女の問いには短く答えるばかり。気を配ったつもりが、結局は冷たく距離を置いただけだった。

そして、それは今日のディナーの時間まで変わらなかった。


銀の器に残された料理の跡が脳裏に浮かぶ。

そして彼女が見せた、作り物のように硬い笑みまでも。


「……分かっている。だが、どう言葉をかければいいか分からなかったんだ」


「レオナルド様……」


低く漏らした告白に、クラウスは沈黙した。

そして深く、重い溜め息を落とす。


幼少期から辺境での生活に慣れきったレオナルドにとって、女性との会話は慣れないものだった。辺境伯の家系に生まれ、幼いころから軍事訓練に参加し、周囲は常に男ばかりの環境で過ごした。

王都の貴族令嬢との会話など、何を話せばよいのか、どの言葉が相手を喜ばせるのか、まるで見当もつかなかった。


前の婚約者との会話も、やはりぎこちなく、無理に話しかければ誤解を招いてしまう。レオナルドが話せば話すほど、婚約者は不機嫌になるばかりだった。

しかし、流行の観劇や最先端のドレスの感想などを求められても、なんと返事すれば良いのか分からなかった。だから、いつも短く、そっけない応対しかできなかったのだ。


その癖は今も抜けていない。ソフィアに話しかけるときも、言葉は短く、ぎこちなく、どうしても無愛想になった。

会話をしようとすればするほど、胸の奥で焦りと不安が渦を巻き、結局、言葉は凍りついてしまうのだった。


「……レオナルド様が口下手なのは承知しております。しかし、会話を重ねなければ夫婦にはなれませんよ。ソフィア様は以前の婚約者様とは違いますから、ご安心ください」


確かに彼女は、前の婚約者とは違うようだった。


王都の高位貴族の娘など、みんな手の付けられない我儘な娘だかりだと思っていた。前の婚約者がまさにそうだった。

気に入らないことがあれば不満を並べ、願いが叶わねば下の者にあたる。自分の心地よさだけを追い求め、周囲を顧みることなどなかった。


「ああ……彼女は優しい女性のようだな。下の者にもよくしている」


思わず視線を和らげ、そう呟いた。

彼女がどの人物にも気を掛けている様子を見て、逆に心配になるほどだ。


我儘も、文句も言わない。慣れぬ辺境の生活に、不都合が多いはずなのに……。気を張りすぎてはいないだろうか。


儚げなその姿が、胸の奥に妙な疼きを生む。

この婚姻は王命で決まったもの――彼女は望んで来たわけではない。

ならばせめて、快適な生活を送ってほしいのに。


文句ひとつ言わず、緊張を押し殺して微笑む姿に、レオナルドの胸はざわつく。


「そうです。いくらレオナルド様のお話がつまらなくても、ソフィア様なら笑って耳を傾けてくださるでしょう」


「……遠回しに、俺の話がつまらないと言っているのか」


レオナルドの苦情は、クラウスに無視された。


「大事なのは、会話をすることです。ソフィア様は庭園をご覧になっていることが多いようです。夕方にでも外へ出て、話を聞いてみてはいかがでしょうか?」


「……わかった。明日にでも、庭園へ出て話をしてみる」


「結構。旦那様は言葉が少なくて誤解されてしまいがちですからな。きちんとご自身の思いを言葉にしてください。ええ、包み隠さず全部ですよ」


クラウスは深く頷き、にこりと微笑む。

彼の微笑みを見て、レオナルドはなぜか無性に気が重くなった。


その時、扉の向こうから控えめなノックが響いた。

「入れ」とレオナルドが言うと、侍女のミーナが慌てた様子で駆け込んでくる。

息を整える間もなく、顔色を変えて頭を下げた。


「失礼いたします、旦那様……っ。ソフィア様が――熱を出してしまわれたようでして……」


「……熱?」


レオナルドの眉がぴくりと動いた。

それまで静かにしていた空気が、一瞬で張り詰める。


「はい。夕餉のときから具合が悪かったようで、いまはお部屋でお休みですが……かなり熱が高いご様子です」


ミーナは不安に震える声で言い、視線を伏せる。

報告を受けたレオナルドの表情には、かすかな動揺が走った。


「医者は呼んだのか」


「はい。ただ、お屋敷の離れにおられるため、こちらへ来るまで少し時間がかかると……」


「そうか」


低く呟いた声には、いつになく焦燥がにじんでいた。


やはり、無理をさせていたのだな……。

ああ、俺の心配りが足りないばかりに……!


胸の奥を、鋭い痛みが貫いた。

それは後悔とも苛立ちともつかぬ感情で、心の奥深くを静かに焼いた。


実はヘタレなだけだった辺境伯。

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