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8話 新しい生活

辺境伯の屋敷の人々が緊張の面持ちを隠せないでいる一方、ソフィアもまた、慣れぬ土地で迎える朝に、胸の奥を静かに締めつけられていた。

辺境の館は広く、人も多いのに、何故かひどく静まり返って感じられる。

レオナルドだけではなく、屋敷の人々が自分を歓迎してないのではないか――そんな思いが、ふと心をかすめる。

見知らぬ環境、見知らぬ人々の中で、自分だけが異物のように浮いているような心細さが、ソフィアを不安にさせていた。


けれど、数日を過ごすうちに、ソフィアはそれが杞憂だったのだと知る。

自分に向けられる視線は、どれも温かく、思いやりに満ちていた。

はじめは互いに距離を量りかねていたものの、少しでも不便があれば、屋敷の者たちはすぐに手を差し伸べてくれる。なにか不自由はないかと気を配ってくれる。それだけで、緊張して硬くなっていた心の糸が、少しずつ解けていくのを感じた。


ひとりきりの、静かな朝食を終えた後。

食後の紅茶を口にしながら、ソフィアはふと窓の外を見つめる。遠くの空は透きとおるように晴れ、淡い陽光が庭の芝に降り注いでいた。


「……今日はいい天気ね。外を歩きたいわ」


ソフィアがそう言ったとき、ミーナはすぐに外套を手に取った。この屋敷の庭は広い。慣れないうちに一人で歩かせるのは心許ない。


「ご案内いたします、ソフィア様」


ミーナの言葉に、ソフィアは柔らかく微笑んだ。


「ありがとう、ミーナ」


庭園に出ると、朝の光がやわらかく降り注いでいた。亜麻色の髪が風にほどけ、淡い金の光をまとった。


辺境伯邸の庭園は、広大であった。

遠くまで続く芝は見事に刈り揃えられ、縁をなす生け垣は隙ひとつなく整っている。どこを見ても乱れはなく、職人の手が確かに行き届いていることがわかる。だが、それだけだった。

整然としているのに、どこか息苦しいほどの静けさがあった。


「あ……」


思わず漏れた声に、メイドが気まずげに目を伏せる。


「ええ……その、ご覧の通りでして……。女主人が亡くなられてからというもの、気を回す者がいなくて。前辺境伯も、現当主も庭園にはあまりご興味がなくて……」


言葉の端に、慎ましい弁解の色が滲む。


前辺境伯夫人は、早くにこの世を去ったと聞いている。

風が渡っても、花の香りはしない。かつて女主人が季節ごとに植え替えを命じていただろう花壇は、いまや低木と砂利だけを残し、色というものを失っていた。


芝は整えられ、枝も剪定され、藪もきちんと刈り込まれている。必要な世話は施されているのに、花ひとつない庭園は、どうしても殺風景だった。

ミーナは、少しだけためらってから言葉を続けた。


「……夫人が生きていた頃は、大層美しい庭だったらしいのですが」


その声には、どこか懐かしさと寂しさが混じっていた。


「そうなのね……」


「はい。先代夫人はたいそう花を愛されていて……この庭は、季節ごとに色が変わるほどだったとか。けれど、夫人が亡くなられてからは……」


言葉はそこでそっと途切れた。

ソフィアはうなずいた。寂しい風景を見て、遠慮がちに口を開く。


「……庭園の世話は女主人の務めよね」


「ソフィア様……?」


「まだ正式に嫁いだわけでもないのに、私が手を出すのは……差し出がましいかしら」


その問いに答えたのは、ミーナではなかった。

少し離れた場所から、静かな足音が近づく。


「いいえ、そんなことは決してありません」


執事のクラウスが恭しく一礼する。


「いずれ、ソフィア様はこの館の女主人となられるお方。そのソフィア様が、この庭を美しくしたいと仰ってくださるのなら……それは、我らにとって望外の喜びです」


「なら……私に、庭の管理をやらせてもらえる? あっ……でも、レオナルド様はどう思うかしら。勝手なことをしていると思われたら……」


言ってから、ソフィアははっとして口を押さえた。その声色には不安がにじみでている。

クラウスは、柔らかな笑みを浮かべて首を横に振った。


「ご心配には及びません。レオナルド様に、私からお伝えいたします。むしろ、お嬢様が庭に興味を持ってくださったと知れば……きっと、お喜びになりますよ」


「……そう、ですか?」


ソフィアの頬に、ふわりと花が咲くような笑みが広がった。


「それなら、早速……庭師の方とお話ししてみようかしら」


軽やかにスカートの裾をつまみ、ソフィアは歩き出した。


庭師は直ぐに見つかった。藪を剪定していた年配の男が、彼女の気配に気づいてゆっくりと頭を下げる。

その指は節くれ立ち、長年この庭を守ってきた証のようだった。


「こんにちは。貴方が此処の庭師なのね? お話しを聞かせていただけるかしら」


「ソフィア様……お噂は伺っております。まさか、ご庭に興味を持っていただけるとは……殺風景な庭で驚かせてしまったでしょう」


庭師は緊張を隠しきれぬ様子で、帽子を胸の前に抱いた。

ソフィアは一瞬だけ視線を花壇に落とし、そして、ふっと穏やかに微笑む。


「そうね……少し、寂しいわね」


「もう20年ほどになりますかのう。前の奥方様はとてもお優しい方で、花が何よりお好きでした。季節が移るたびに、花壇の配置を変えられてな。春にはチューリップとスイセン、バラ。色とりどりの花が咲き誇っておりました……」


庭師の口元に、懐かしむような微笑が浮かぶ。そう語る声には、敬意とともに小さな寂しさがあった。

ソフィアは、荒れた花壇に視線を向ける。

風に揺れるのは、青みがかった蔓とわずかな草の葉ばかり。


「……きっと、素敵な庭だったのでしょうね」


「ええ、しかし……奥方がいなくなってからは、庭師も減り、予算も削られてしまいました。我々にできるのは、せめて荒れぬように整えることだけでしてな」


静かな沈黙が、ふたりの間に落ちる。

やがてソフィアは、そっと顔を上げた。


「此処に嫁いできたからには、折角のこの庭園を、また美しい姿に戻したいわ。だって……此処は、これから私の家になるのだもの」


その声は柔らかく、それでいて芯のある響きを帯びていた。

ソフィアはそっと息をつき、庭を見渡した。


いずれ、この屋敷でお茶会を開くことになるだろう。

辺境であっても社交は夫人の務めであり、荒れた庭を晒すわけにはいかない。貴族としての体面を守ることは、幼い頃から叩き込まれてきた。


けれど今は、それだけではない。

亡き夫人が愛したこの庭に、もう一度、花の香りを戻したい。この辺境に嫁いできた自分自身のためにも。


「色々と教えてくださる?」


庭師は深く頷き、皺の刻まれた手を胸に当てた。


「承知いたしました。きっと、亡くなった夫人もお喜びになりましょう」


「そうだと嬉しいわ。まずは貴方の名前を教えていただけるかしら?」


「……ゴートンと申します」


遠い地でも、きっと花は咲く。

この庭にも、そして――ここに根を下ろそうとする自分の心にも。手をかけ、思いを注ぎ続ければ。

ソフィアは微かに微笑むと、ゆっくりと庭園を見渡した。どこに何の花を植えようか、頭の中で構図を思い描いた。

春には薔薇やチューリップが咲く庭園を思い浮かべるだけで、心が温かくなるようだった。


***


それから日を追うごとに、花壇の整備を通じて、屋敷の人々と自然に言葉を交わすようになっていった。


「ソフィア様、こちらの苗は今植えると春に花を咲かせるそうですよ」


「まぁ、素敵ね。では、そちらにお願いね」


庭師の助言に耳を傾け、メイドたちと並んで土を耕す。


「ソフィア様、こちらの株は霜が降りる前に根元を覆っておいた方がよろしいかと」


執事の進言に、ソフィアは顔を上げて頷いた。


「こちらの冬越しには準備が必要なのね。では、藁を多めにお願い」


「ええ。春になれば、きっと一番に芽吹きますよ」


皆が分け隔てなく笑い合うその輪の中にいると、胸の奥がふっと温かくなる。


この館で出会う人々は、皆、自分のことを思いやってくれている。

そして、下の者に対しても決して偉ぶらずに、気さくに話をしてくれるソフィアに、執事やメイド達も心を開いていった。


けれど――。

肝心の婚約者であるレオナルドとは、いまだ心の距離を縮められずにいた。


彼と顔を合わせるのは、一日の終わり。夕餉のときだけだった。長い食卓の向こう側。彼はいつも姿勢を崩さず、静かに食事を取る。礼儀正しく言葉を交わしてはくれるが、それ以上の会話が続くことはない。


「……今夜の料理は、お口に合いましたか」


「ええ、とてもおいしいです。厨房の皆さんにもお礼を伝えてください」


――そんなやり取りだけが、毎晩の決まりのように繰り返された。

初日と同じ距離のまま。そこに敵意はない。けれど、温もりもない。


ソフィアは、時折スプーンを置いて、そっと彼の横顔を見つめた。整った顔立ちに、ほとんど表情の揺れがない。何を考えているのか、まるで読めなかった。


……やっぱり、歓迎されていないのかしら。


胸の奥でじんわりと不安が疼く。そのせいか、食欲もわかず、食事がまったく進まない。

ふと、もしもエリック様と結婚していたなら……、とそんな思いが脳裏をかすめた。


――いいえ、甘い新婚生活など、どうせ望めなかったはず。


そう自分に言い聞かせ、そっと首を振る。

いつまで経っても未練がましい自分に嫌気がさす。胸の奥がずしりと重く、気持ちだけでなく、身体まで具合が悪くなっていくようだった。


たとえ、レオナルド様に疎まれていたとしても――。笑顔を絶やさず、与えられた務めをきちんとこなそう。

この地に暮らす者として、自分がすべきことは変わらない。下の者にも気をくばり、感謝を伝えよう。


それは貴族として当然の振る舞いだと、ソフィアは信じていた。同時に、幼い頃に家族から蔑ろにされた経験から学んだ、心の教訓でもあった。

誰だって、努力を認められたいし、感謝されたい。心配してもらえたら、きっと嬉しい。そんな当たり前のことを、ソフィアは誰より知っている。

だからこそ、ソフィアはそれを自分の務めとして、まっすぐに果たそうとした。


そして、ほんのわずかにでもいい。

いつか、レオナルド様にも認めてもらえればいいと――。


淡い願いを胸に抱き、ソフィアはそっと窓辺へ視線を向ける。

闇に染まった硝子に映るのは、どこか歪んだ自分の笑顔だった。


……相変わらず、下手くそな笑顔ね。

こんなわたしでは、好いてもらえなくても無理はないわ。


辺境の冷たい夜風が窓を叩く。長い冬の足音は、もうすぐそこまで忍び寄っていた。


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