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7話 不安を抱く者たち

辺境伯の館に、ソフィアが婚約者として到着した翌朝。

広い屋敷の空気には、どこか張り詰めたような微妙な緊張が漂っていた。


廊下を行き交うメイドたちは、そっと視線を交わしながら、新しい花嫁の動向を気にしている。

ソフィアの足音が遠ざかるたび、囁き声がひそやかに交わされた。


「最初の印象は悪くありませんね。もの静かで、優しそうな方に見えました」


「でも、まだ分かりませんよ。慣れてきた途端に豹変する方もいますから」


執事とメイド長。二人の声には、警戒心が滲んでいた。


二人が警戒するのも仕方がなかった。かつてレオナルドと婚約していた女性は、容姿は華やかだったが、気性は激しく荒々しかった。召使いたちを軽んじ、無理な命令を次々と押し付け、時には酷い言葉を投げつけることさえあった。

そのせいで館の空気は荒み、誰もが息を潜めて日々をやり過ごしていた。


表向きは令嬢が病気になったことが理由で婚約は破棄されたが、その記憶はいまだ館に影を落としていた。


「こう言ってはなんですが、婚約が破棄されて本当にほっとしております。あの女性が嫁いでおられれば、私どもの苦労も計り知れませんでしたから」


「命令一つ取っても理不尽で、手を焼かされましたからね。あの令嬢と長く暮らすのは、想像するだけで気が遠くなります」


「ですからこそ、今度こそは穏やかで、優しいご令嬢であってほしいですね……」


いずれ自分たちが仕えることとなる奥方なのだから、なおさら。執事もメイド長も、そして屋敷の者たち全員が、新しい花嫁の人となりを固唾をのんで見守っていた。


「不安はあれど、……まずは焦らず、様子を見守りましょう」


執事クラウスが静かに言った。

老いた声には、慎重ながらもどこか希望の響きがあった。


「家族と離れ、遠い辺境まで嫁いできてくださったのです。この家に来てくださったからには、迎える側としての礼を尽くしましょう」


メイド長は小さく頷き、胸の前で手を組む。


「ええ。どのような方であっても、まずは丁寧にお迎えするのが私たちの務めです。……突然の婚約で、きっと戸惑っておられるでしょうから」


「この遠い土地に嫁いできて、どのようなお気持ちで過ごされているのか……」


朝の光が長い廊下に射し込み、磨かれた床を静かに照らしていた。

その柔らかな光は、まるで新しい主を迎えた館に、少しずつ温もりを戻していくようだった。


***


その日――、ソフィアの部屋の前では、侍女のミーナが深く息を吸い、胸の鼓動をなだめようとしていた。

新しい花嫁の世話を任される。それは館の者にとって、期待と不安の入り混じる大役だった。

軽く扉を叩き、声を掛ける。


「おはようございます、ソフィア様。お目覚めのお時間でございます。入ってもよろしいでしょうか?」


「もう起きてるわ。どうぞ、入っていらして」


静かな返事に、侍女は慎重に扉を開いた。

朝の光が薄いカーテンを透かし、室内を金色に染めている。銀の盆を抱えた侍女は、水差しと陶器の洗面器を運び入れる。


「おはよう。あなたは、はじめて見る顔ね」


寝台の上で身を起こしたソフィアは、まだ少し夢の名残を瞳に宿したまま、やわらかく微笑んだ。


「……おはようございます。本日よりソフィア様のお世話を仰せつかりました、ミーナと申します。どうぞよろしくお願いいたします」


「こちらこそよろしくね、ミーナ」


その声音に、ミーナの手がふと止まった。

貴族令嬢の多くは当然という顔で使用人を扱うものだ。だがこの方は、ただの侍女にすぎない自分の名を、まるで昔からの知己のように自然に呼んだ。


ソフィアは、ミーナが用意した盥の水でそっと顔を清めた。水面がきらりと光り、窓辺の朝日を反射してゆらめく。差し出された手拭いで静かに拭った。

続いて、ミーナはソフィアの髪を梳く。

亜麻色の髪に櫛を通すたび、光を含んだ柔らかな束が肩へとしなやかに流れ落ちる。


「……痛くないですか?」


「ええ、大丈夫よ。あなた、とても上手ね」


緊張しているメイドを安心させるようにソフィアはそう言い、一呼吸置いてから質問を投げかけた。


「ねえ、この部屋……あなたたちが用意してくれたの?」


「は、はい……お気に召さなかったでしょうか。もし、家具や配置にご不満があれば――」


叱られるのでは、とミーナの背筋がぴくりとこわばった。以前の婚約者は、気に障ることがあれば容赦なく怒鳴りつける人だったのだ。


「いいえ、違うの。お礼を言いたかったの。きっと、わたしのことを考えて素敵な部屋を用意してくれたのね。気持ちは十分に伝わったわ、ありがとう」


その一言に、ミーナの胸が熱くなる。

前の令嬢からは決して聞けなかった言葉。控えめで、けれど確かに優しさのこもった声だった。


――この方なら、もしかして。


そう思った瞬間、ミーナは初めて、心から安堵の息をついた。


それからミーナは、ソフィアをダイニングルームへと案内した。昨夜、レオナルドと夕食を取った場所と同じ部屋だ。

今朝の食卓は、いつになく静かだった。

長いテーブルの中央に一人、ソフィアは姿勢を正して座っている。婚約者であるレオナルドは、すでに夜明けとともに出立したと聞かされていた。


ソフィアが辺境の館に来て、まだ二日目。

見慣れぬ食器と、少し硬い空気のなかで、ソフィアは静かにナイフとフォークを動かした。

その姿はどこまでも穏やかで、どこか儚げでもある。

ミーナは給仕台の陰からそっとその横顔を見ていた。


その時だった。新人のメイドが食後の紅茶を運んできた。


「食後の紅茶でございまッ……!」


両手でトレイを持ち、震える指先でティーカップを運ぶ。

だが、緊張のあまりにわずかに足がもつれた。


カシャン――!


白い磁器が床に砕け、紅茶の香りとともに琥珀色の液体が広がる。

ソフィアのドレスにも跳ね、メイドの顔から血の気が引いた。


「す、すみません! お嬢様!」


泣き出しそうな声に、ミーナの胸もぎゅっと締めつけられる。

だが、ソフィアは慌てることなく、静かに立ち上がった。


「私は大丈夫よ。それより、あなたは? 怪我はしていない?」


「え……」


「火傷でもしていたら大変だわ。手を見せてくれる?」


スカートの裾が汚れるのも気にせず、ソフィアはメイドの前にしゃがみ込む。

おずおずと差し出された手を、そっと取った。指先には小さな赤みがあったが、深い傷ではない。


「良かった、そんなに酷くはなさそうね。念のため、すぐに冷やしましょう」


柔らかな声と微笑みが、場の空気を和ませる。

その一言で、メイドの瞳がじわりと潤むのをミーナは見逃さなかった。


遠巻きに見ていた使用人たちも、息をのんでいた。

前の婚約者なら、怒声が飛んでいたに違いない。だがこの方は、まるで反対だった。叱るどころか、自分たちを気遣う言葉を向けてくれる。


「ミーナ、この子の手当をお願いできるかしら。それから、誰か床の片づけを頼める?」


「かしこまりました。ただ、お嬢様のお召し物が汚れております。先にお着替えをなさっては……」


「いいえ、大丈夫よ。私は着替えるだけで済むもの。それより、怪我をしている子を優先してあげて。それに……陶器の破片が床に残っていたら、危ないでしょう?」


穏やかな口調ながら、迷いのない指示だった。

その場にいた者たちは一瞬顔を見合わせ、すぐにそれぞれ動き出した。


その言葉に、ミーナは思わず胸が熱くなるのを感じた。

ソフィアの亜麻色の髪が朝の光を受けてきらりと揺れた。その姿は、この館に春の陽が射し込むようだった。


――ああ。この方は、前の方とはまるで違う。

この方なら、きっと。レオナルド様とも……。


誰ともなく、そんな思いが胸に落ちた。

その瞬間から、館に漂っていた張りつめた空気が、ほんの少しだけ、やわらいだ。


「お気遣い、ありがとうございます」


「いえ、こちらこそ。貴方たちが迅速に対応してくれて助かるわ」


「とんでもございません」


短いやり取りの中に、自然と温かさが宿る。以前の婚約者では決して見られなかった光景だった。

執事クラウスは、その様子を見て心の中で呟く。


「なるほど。こういう方なら、館の皆も安心できそうですな。……レオナルド様も、きっと」


メイド長もまた、「今度の婚約は上手くいきそうですね」と頷いた。

館の者たちも少しずつ心を解き、ソフィアは信頼できる存在として迎えられていった。


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