6話 氷の獅子と呼ばれる男
王都を離れて数週間。
揺れる馬車の窓から見える景色は、日を追うごとに緑を失っていく。やがて草木の色は褪せ、土肌の多い荒れた大地が広がりはじめた。夏の名残をほんの少しだけ残しながらも、季節は確かに秋へと傾き、辺境に近づくにつれて風は冷たさを増してゆく。頬を撫でるというよりも、どこか突き刺すような北風は、ここがもう王都とは違う土地なのだと告げていた。
王都のように磨き上げられた石畳とは、とても比べものにならない。辺境へ続く道は砂利と泥に覆われ、車輪が跳ねるたびに馬車がきしんだ。
視界に広がるのは、どこまでも続く起伏の少ない平原と、空を遮るようにそびえ立つ山々。
ここは王国の北東に位置する、オーガスティン辺境。
領地のさらに奥には険しい山脈が連なり、そこからは恐ろしい魔物が姿を現す。この地は、王国に魔物を踏み入れさせぬため、常に防衛を担う最前線だった。
「なんだか寂しい場所ね……」
馬車の揺れに身を任せながら、ソフィアは遠くの山々を見つめた。
ここでの生活は想像もつかない。王都での華やかな生活とは違い、孤独で不便に満ちた日々が待っているのだろう。
「愛のない生活を送ることになるのかしら……」
小さく呟き、膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめる。
急遽、結ばれた婚約。
本来、貴族の結婚とは、長い婚約期間の中で互いを知り、少しずつ絆を育んでから迎えるものだ。けれど、今回の結婚にはその時間が与えられなかった。
愛を育む余地もなく、ただ命じられるままに嫁ぐ――。
その先に待つのは、冷たい義務だけの生活ではないだろうか。
「……いいえ」
ソフィアは唇を噛みしめ、首を横に振る。
「あのまま王都に残っていたとしても、愛のある結婚なんて……きっと、望めなかったのだから。……同じことよね」
馬車の窓に映る自分の口元が、どこか諦めを滲ませた笑みに歪んで見えた。
やがて長い旅路の先に、ひときわ大きな建物が見えてきた。重厚な石造りの壁に囲まれた、城と見間違えるような邸宅。重厚な石の壁に囲まれたその邸宅は、城と見まごうほど堂々としている。
馬車がゆるやかに停まり、扉が開いた。
「……お手を」
低く響く声とともに差しのべられたのは、武骨で大きな手だった。
力強いのに、決して粗野ではない。その掌に導かれるまま馬車を下りた瞬間、冷たい大地の感触が靴底を通じて伝わってくる。
「……ありがとうございます」
かすかに息を整えながら見上げた。冷たい大地の気配が靴底から染み入り、吐く息が白く溶ける。
冷たい風に外套が揺れ、その影が石畳の上に長く伸びていた。そこに立っていたのは、彼女の新たな婚約者となる辺境伯のレオナルドだった。
短く刈り込まれた黒髪に、黒瑪瑙の瞳。
精悍な顔立ちは均整が取れているのに、柔らかさとは無縁だった。高い鼻筋といい、引き結ばれた口元といい、まるで彫刻のような顔立ちだ。
その眼差しは常に研ぎ澄まされ、視線を受け止めた者の心を射抜くように冷たい。
まるで戦場から戻った軍人のような気配をまとい、立っているだけで周囲を一歩退かせる迫力がある。
端正であるがゆえに、なおさら近寄りがたい。そんな男だった。
――この人が、冷酷無比と囁かれる“氷の獅子”レオナルド・オーガスティン様なのね。
エリック様とは全く違うわ……。
冷ややかな黒の瞳は、まっすぐソフィアを見据えている。ただ視線を向けられただけなのに、ソフィアの心臓は蛇に睨まれた兎のようにとくんと跳ねた。
逃げ場のない視線。無意識のうちに身体を硬くしていた。
「遠いところまでよく来てくれた」
一体どんな言葉を掛けられるのかと身構えていたところ、低く落ち着いた声を掛けられた。
その響きには不思議な温もりがあった。冷たい瞳の印象とは裏腹に、真摯に向き合おうとする意志を感じた。
鋭い刃のように見えた男の口から紡がれる柔らかさに、ソフィアは胸の奥で小さな驚きを覚える。
同時に、張りつめていた緊張の糸がほんの少しだけほどけていくのを感じていた。
「……あ、はい……」
言葉がぎこちなく出る。
ソフィアは深く息を吸い直し、静かに言葉を紡いだ。
「改めまして、ソフィア・リヒターと申します。……この度、貴伯領に嫁ぐこととなりました。至らぬ点も多々あるかと存じますが、どうぞよろしくお願い申し上げます」
落ち着いた口調と丁寧な言葉遣い。ソフィアはスカートの裾を持ち、膝を折って頭を下げた。
男性は一瞬だけ視線を和らげ、静かに頷く。
「レオナルド・オーガスティンだ。辺境伯領を統治している。……どうぞ、よろしく頼む」
ソフィアは再び深く頭を下げる。
「はい。この身をもって、貴伯領の安寧に尽力いたします」
その返答に、レオナルドの口元がふっと緩む。
「そう、固くならずともいい。……これからは此処が君の我が家だ」
「……お気遣い、ありがとうございます」
「長旅で疲れているだろう。夕食の時間まで休憩すると言い。部屋に案内しよう」
促されるまま、レオナルドの後ろに従って石畳の通路を歩く。広大な邸に足を踏み入れた瞬間、緊張と不安で胸が小さく揺れた。
天井の高い半円筒形のホールには、堂々とした石柱がいくつも並んでいる。足音が響くたび、空気がわずかに震える。
裾を押さえ、長旅の疲れを悟られぬようにソフィアは姿勢を正した。
しばらくして、レオナルドが足を止め、静かに振り返った。
「……こちらが、君の部屋だ」
階段を上り、案内されたその部屋は、窓から差し込む陽射しでやわらかく照らされていた。
日照時間の少ないこの土地にあって、わざわざ日当たりのよい部屋を選んでくれたのだと分かる。
その心遣いに、ソフィアの胸がわずかに温かくなる。
「私の部屋は同じ階にある。……夫婦となった暁には、隣りの部屋に移ってもらうことになる。それまでは、この部屋で過ごしてほしい」
説明は端的で飾り気がなかったが、そこには彼なりの心遣いを感じた。
「……ありがとうございます、レオナルド様。ところで、ご家族へのご挨拶は、いつ頃に――」
「……辺境伯夫人である母は、すでに亡くなっている。父は魔物退治の折に負った怪我で、今は別荘で療養中だ」
「まあ、そうなのですね」
「挨拶は、当分先になるだろう。まずは身体を休めてくれ。荷物は後で運ばせる。夕食の時間になったら知らせる」
扉が閉まると、静寂が部屋を包んだ。
ひとりきりになった途端、張りつめていた緊張がふっと緩み、ソフィアは胸に手を当てて小さく息を吐いた。
長旅の疲れがどっと押し寄せ、ソフィアは椅子に腰を下ろした。
視線を上げると、柔らかな色調で整えられた室内が目に入る。
壁は淡いクリーム色、窓辺には繊細な刺繍を施したカーテンがかかり、陽射しを和らげていた。
豪奢すぎず、しかし質のよい調度品が整えられており、住む者を落ち着かせる温かみがあった。
窓際へと歩み寄ると、外には遠く山並みが連なり、澄んだ空気の中で鳥の声が響いている。
王都の喧騒とはまるで別世界。
ここが、これから自分の暮らす場所――辺境伯夫人としての日々が始まるのだ。
その日の夕暮れ、館の窓から見える空は茜色に染まり、辺境の冷たい風にも関わらず、どこか温かな光に包まれていた。
ソフィアは胸の奥に、新しい生活への期待をそっと抱いた。
***
旅の疲れを癒やす間もなく、すぐに夕餉の時間はやってきた。
案内された食堂には、長い卓が据えられていた。燭台に灯る炎が揺らめき、磨かれた銀食器に映り込んでいる。だが、長卓にはたったふたり、レオナルドとソフィアしかいなかった。
「……どうぞ」
低い声と共に、席を勧められる。
ソフィアは緊張に指先を強ばらせながら、そっと椅子に腰を下ろした。広い食堂に響くのは、皿の上でナイフとフォークが触れるかすかな音だけ。
ソフィアは小さく息を整え、勇気を振り絞って口を開いた。
「……あの、レオナルド様は、普段はどのようにお過ごしになることが多いのでしょうか?」
机の向こうで彼はほんの一瞬だけ目を上げ、静かに答える。
「仕事が大半だ。防衛と領地の管理だな」
ソフィアは微笑もうとしても、表情が固くなる。どうにか話を続けようと、少し声を高めて尋ねる。
「それでは、ご趣味は?」
レオナルドは淡々と返す。
「ない」
その一言にソフィアはぎこちなく微笑む。だが、会話を続けずにはいられない。
「そうですか……。それでは、好きな本や音楽はありませんか?」
彼の視線が一瞬だけこちらを捉える。
「……特にないな」
言葉は短く、会話を広げる余地は全く残されなかった。
燭台の炎がかすかに揺れ、壁に伸びる影を細く長く揺らめかせる。
銀の食器が触れ合う澄んだ音だけが、やけに大きく響いた。
顔を突き合わせながらの食事だというのに、会話は続かない。
互いの存在を意識すればするほど、沈黙は重く、堪えがたいほどに広がっていく。
香ばしく焼かれた魚のローストも、濃厚なスープの味も、口に含んでも味がせず、喉を通るたびに重苦しさが募っていく。
レオナルドは黙々と食事を進めるだけで、視線を合わせることすらなかった。
そのつれない態度が、思いのほか鋭く胸に刺さった。
――レオナルド様も、シャーロットのように愛らしい令嬢が嫁いでくることを期待していたのではないかしら。
そんな中に私が現れて……がっかりさせてしまったのだろうか。
華やかな妹に比べて地味だと言われ続けた容姿。愛想笑いひとつさえ上手くこなせない不器用な令嬢。
その自覚が、彼女の心をじわじわと侵食する。もしも嫁ぐはずだったシャーロットが彼の前に座っていたなら、レオナルドは穏やかに微笑んでいたのだろうか。
そんな考えが胸の奥で渦を巻く。笑顔を作ろうとしても引きつり、言葉を探しても唇は閉ざされたままだった。
ソフィアの胸に不安がじわりと広がったそのとき、唐突にレオナルドが低く口を開いた。
「今後のことだが――」
突然の声に、ソフィアは小さく息を呑む。
顔を上げると、彼の黒い瞳が真っ直ぐこちらを見つめていた。戸惑いながらも、震える声で答える。
「……はい」
レオナルドは言葉を続ける。
「来年の春に、私たちの式を挙げる。異例の速さで困惑するだろうが、了承してほしい。式について、何か要望があれば、早めに頼む」
「……はい、わかりました」
「それから、防衛の仕事もある。夜明け前に屋敷を出ることも多い。だが、私に遠慮せず、朝食と昼食は好きな時間に摂ってくれ。……出来る限り、夕飯は一緒に摂るようにしよう」
「はい……」
「……だが、無理に合わせる必要もない」
会話はそこで止まり、卓には再び静寂が訪れた。
会話と言っても、確認事項だけが淡々と交わされたに過ぎなかった。ソフィアは胸の奥で小さな不安が波のように広がるのを感じた。
ようやく食事が終わると、ソフィアは息をひそめるようにしてナプキンを畳んだ。
卓の上の燭台の火が小さく揺れ、彼女の影を壁に映す。その影は細く、頼りなく見えた。
ソフィアは部屋に戻ると、そのままベッドへ身を投げ出した。
旅の疲れが一気に押し寄せ、身体は重い。けれど胸の奥には、落ち着かぬざわめきが残っていた。
「……本当に、私はここでやっていけるのかしら」
思い返すのは、先ほどの食卓。向かいに座るレオナルドの表情は、終始、氷のように静かだった。にこりとも笑いもしなかった。
どう見ても、自分を歓迎しているようには思えなかった。
「愛のない結婚生活になるかもしれない。その覚悟はしていたつもりだったけれど……」
けれども、今度の婚約は上手くいくかもしれないと、心のどこかで期待していた。今からでもお互いに歩み寄ることができるはず。そんなささやかな希望を打ちのめすには十分だった。
それでも――。
胸の奥には、出会ったときのレオナルドの声が耳に残っている。
低く、バリトンの利いた声。冷たさの中に揺るがぬ誠実さを秘めた、その声が――今も静かに心に響いていた。
ソフィアの心は期待と不安に揺れた。




