5話 長い恋の終わり。その一方で――
決定は思った以上に早く下された。
伯爵家から王宮に返答が届くと同時に、婚約のすり替えは公的に承認されたのである。
――ソフィアは辺境へ。
――シャーロットは侯爵家嫡男エリックの婚約者に。
その報告を受け、ソフィアは静かに旅支度を始めた。
衣装箪笥の前に立ち、必要最低限のドレスと防寒具を選ぶ。王都の華やかな舞踏会に似合うシルクのドレスは置いていく。代わりに、動きやすく暖かな毛織物や厚手の外套を鞄に詰めた。
彼女の侍女は涙ぐみながら荷造りを手伝った。
「お嬢様が、こんな遠い場所へ……。辺境なんて、あまりにも酷いです……!」
涙ぐむ声に、ソフィアはそっと首を振る。
侍女はソフィアの家での立場をよく知っていた。いつも妹ばかりを可愛がる家族の中で、静かに耐えてきた主を、彼女は気にかけてくれていた。
だからこそ、この旅立ちが、どれほど不憫なものに映るのかも。
「大丈夫よ。わたしは決めたの。後悔はしてないわ」
「やっぱり、私もついていきます!」
「駄目よ。もうすぐ結婚が待っているでしょう?」
ソフィアは穏やかな声で言いながら、そっと微笑んだ。
本来なら、結婚後も嫁ぎ先の侯爵家にこの侍女をつれていくつもりだった。けれど、行き先は今や遠く荒れた辺境へと変わってしまった。そんな場所に、幸せを目前に控えた彼女を連れていくことなどできるはずがない。
「幸せになって。わたしのことは心配しないで」
その優しい言葉に、侍女は堪えきれず、ついに涙をあふれさせた。
何度も謝りながら泣きじゃくる背中を、ソフィアは静かに撫でる。その微笑みの奥には、言葉にならない虚しさがかすかに揺れていた。
出立の日の朝。
まだ空が白むころ、伯爵家の門前には馬車が待機していた。厚い毛皮で覆われた御者台に吐く息が白く漂い、秋の朝の澄んだ空気の冷たさを物語っていた。
父と母、そして長男のチャーリーが見送りに立った。
「ソフィア……王命を受け入れてくれたこと、感謝する。体を大事にするのだぞ」
父の声は低く、しかしどこか誇らしげでもあった。
「……はい。ご心配なく」
ソフィアは深く頭を下げた。
母は涙を浮かべて、何度も「幸せになりなさい」と繰り返した。チャーリーは一言、「気を付けて」とだけ言い、ソフィアを抱きしめた。
そして、最後に妹の顔を見た。
シャーロットは勝ち誇ったように微笑みながら、耳打ちする。
「ねえ、お姉さま。エリック様は私が幸せにするわ。だから安心して行ってらっしゃい」
ソフィアは一瞬、胸の奥がちくりと痛んだ。
けれど次の瞬間、静かな笑みを浮かべて応じた。
「そうね……どうか大切にしてもらいなさい」
その言葉を残し、彼女は馬車へと乗り込んだ。
扉が閉じ、車輪がきしむ音とともに屋敷が遠ざかっていく。窓の外に映る家族の姿が小さくなり、やがて視界から消えた。
ソフィアは膝の上で静かに手を組み、深く息を吐いた。
「……さよなら、エリック様――」
その決意は、長い恋の終わりを告げる鐘の音のように、心の奥底に響き渡っていた。
***
そしてその頃、エリックは――。
「ソフィア嬢は辺境に嫁ぐことになった。お前の婚約者は代わりにシャーロットになった」
侯爵家の執務室に響く父の言葉に、エリックは思わず眉をひそめた。
「……ソフィアが? どういうことですか」
「王命だ。辺境伯に良家の令嬢を嫁がせよとの勅命。指名はシャーロット嬢であったが、本人が強く拒絶した。その代わりに、ソフィア嬢が名乗り出たのだ」
侯爵当主である父の声は淡々としていた。けれどエリックには、それがあまりにも急で、信じ難い報せに思えた。
「……それでソフィアが、辺境に……? どうして僕の何の相談もなく――!」
「相談が必要だったか? 伯爵家と婚約するなら、妹でも姉でも変わらん。それに、お前は妹の方を気に入っていたようじゃないか」
「……っ! そんな、僕は……一度でもそんな事を言っては――ッ」
エリックの声は怒りと困惑に揺れ、言葉の先を結べなかった。
確かに、シャーロットには人前では柔らかい顔を見せてきた。けれど、だからといって、妹の方を選んだわけではない。
「父上、これは誤解です。僕が想っているのは……」
言いかけて、唇が震える。
心の奥底から込み上げてくる感情は、言葉にするにはあまりに切実で、痛切だった。
そのとき、執事が扉をノックして顔を出す。
「ご主人様、お客様がお見えです」
「ん? 誰だ……今日は誰の約束もなかったはずだが」
「シャーロット様が、エリック様にお会いに来たとのことです」
「シャーロット嬢が? 断りなしの来客とは困ったものだが……まあ、よい」
父は静かに告げ、次の指示を出した。
「エリック、出迎えてこい。新しく婚約者となったシャーロット嬢と、しっかり交流を図るのだぞ」
父の言葉に、エリックは小さく頭を下げた。
心の底で、何かが重く沈む音がする。
――新しい婚約者。
その響きが、思いのほか鋭く心に刺さった。
エリックが応接間に行くと、明るい声が出迎えた。
「エリック様! お聞きになられましたかっ。シャーリーがエリック様の婚約者になりましたのよ! 嬉しいです!」
鈴の音のように弾む声とともに、シャーロットが軽やかに駆け寄ってくる。
栗色の巻き髪が揺れ、頬は紅潮し、瞳は喜びに輝いていた。ソフィアが辺境へと旅立って間もなく、彼女は何事もなかったかのように伯爵家を訪れてきたのだった。まるで、空いた席を埋めるのが自分の役目だと言わんばかりに。
胸に両手を添え、喜びを隠そうともしない彼女の姿は、無邪気で、そしてどこか残酷だった。
「……シャー、リィ」
エリックは眉をひそめ、言葉を失った。
彼女の声は楽しげで、あくまで天真爛漫で、しかしその裏に自信と確信があふれていた。
それを目の当たりにして、心の片隅で何かがざわめき疼いた。表向きは歓迎の体裁を取らねばならないと分かっているのに、内心では複雑な感情が絡み合っていた。
どうしても……ソフィアのことを、考えずにはいられない。心の奥底では、ソフィアへの想いと、どうしようもない後悔が渦を巻いていた。
シャーロットはエリックの内心などつゆ知らず、無邪気に身を乗り出し、彼の腕に腕を絡めて、期待に満ちた瞳で見上げる。
「ふふっ、これからはエリック様を独り占めできますね! 姉さまと婚約者を代わってもらえて、本当によかったわ!」
その言葉に、エリックは深く息を吸い、冷静を装おうとするが、動揺は隠せなかった。
シャーロットは屈託のない笑顔のまま、エリックの目をじっと見つめる。
「ねえ、エリック様。これからはたくさん、シャーリーとお話ししてくださいね? たくさん、デートもしましょう!」
その純粋な期待の眼差しに、エリックは答えを出せず、ただ頭を軽く下げることしかできなかった。
「エリック様……?」
シャーロットは不思議そうに小首を傾げた。
本来なら喜びをわかちあう場面なのに、エリックの反応は良くなかった。
「どうして……ソフィア……」
「……エリック様?」
シャーロットの声が、かすかに震えた。
その青い瞳に、これまで見せたことのない戸惑いが浮かんでいる。
ずっと、信じていたのだ。
お姉さまには厳しくても、自分には優しくしてくれる。その優しさは、愛情の証だと。きっと、エリックは自分のことを愛しているのだと……。
令嬢たちが皆、羨むほどの素敵な令息であるエリック。たまたま自分より早く生まれたからと婚約者に選ばれた姉。
本当は、エリック様はシャーリーの事を愛しているのに――。
だからこそ、婚約者になったと告げれば、きっと笑顔で迎えてくれると思っていた。
「どうして……そんな顔をするの……?」
掠れるような問いは、戸惑いと不安に揺れていた。
胸の奥で信じてきた確信が、音を立てて揺らぎ始める。
「シャーリー……ずっと、エリック様のことを、お慕いしてたのよ……。エリック様だって……!」
そこで言葉が途切れる。私の事が好きではなかったの? と、そう口にしかけた瞬間、唇が震えて続かなかった。
エリックの瞳が遠くを見ているように感じられたからだ。
「ごめん、シャーリー……。今は君と話せそうにないんだ」
「エリック様……ッ」
シャーロットは笑みを取り繕おうとした。
けれど頬の筋肉は思うように動かず、無邪気さを装ったその顔は、かえって幼さを晒してしまう。
「どうして、婚約者がシャーリーになってくれたことを喜んでくれないの……!」
そう呟いた声には、初めて芽生えた不安と寂しさが滲んでいた。
舞台は辺境へ。いよいよ、ヒーロー役のレオナルドも登場します。
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