20話 思わぬ来訪
一方その頃――。
王都では、辺境伯領に嫁いだソフィアについて、根も葉もない噂が飛び交っていた。
「ソフィア様、辺境で不便な暮らしを強いられているそうよ」
「お気の毒に……。皆の憧れのエリック様の婚約者で羨ましがられてたというのにねえ」
夜会で葡萄酒を嗜む令嬢たちは、まるで悲劇の物語でも語るように、眉根を寄せて憐れむふりをした。
しかし、そんな噂話を耳にしたエリックの胸には、ひやりとした痛みが走る。
幼い頃から隣にいた少女。
自分を一途に想ってくれていた婚約者。
それなのに――エリックは愛を返さなかった。
そのせいで、望まぬ結婚を受け入れ、厳しい土地へ追いやられたのではないか。
「……ソフィアは、きっと辛い思いをしているのだろうな」
エリックの胸には責任感と罪悪感、そして複雑な未練が混ざった感情が渦巻いていた。
はじめは上手くやれていた。婚約したばかりの頃は、もっと素直に笑い合えていた。なのに、いつからだろう。彼女に屈折とした思いを抱いてしまったのは――。
父上も父上だ――。
他責だとわかっていながらも、エリックはどうしても父に苦言を呈さずにはいられなかった。勝手に婚約の交換を了承したのは、他ならぬ父なのだから。
「ソフィアの妹ならば、姉に劣らず優秀だから問題ないだろう」
どうやら父は、そんな安直な考えを抱いていたらしい。だが、それは決定的な誤解だ。
家族に愛されなかったソフィアは、愛を求めるように勉学に励み、知識も礼儀作法も徹底的に身につけた。あの完璧さは、孤独を埋めるために磨かれたものだ。
一方のシャーロットはどうだ。家族に甘やかされ、欲しいものを欲しいままに与えられ、努力などしたことがない。マナーも教養も、最低限すら怪しい有様だ。
ソフィアのように公爵家の格式を背負える器では決してない。むしろ、シャーロットを妻に迎えることは、公爵家にとって致命的な失策にしかならないのに。
そう――自分の妻にふさわしいのは、たった一人。
ソフィアだけだ。
その確信が胸の底に静かに沈みこみ、やがて揺るぎない決意へと変わっていく。
「……ソフィアを迎えに行こう。きっと、あの子も僕を待っているはずだ」
その声は甘く響きながら、どこか歪んでいた。
ソフィアは僕のものだ。
幼い頃から婚約者として傍にいたのだから、当然だろう。彼女の笑顔も、優しさも、涙さえも──すべて僕だけのものだったはずだ。
強引にでもソフィアを連れ帰りさえすればいい。あとは、シャーロットでは公爵家の夫人にふさわしくないと理由を立て、婚約を当然のように元へ戻せばいいのだ。
何よりソフィア自身が、それを望んでいるはずだ――エリックは疑いもしなかった。
「……そうだ。ソフィアは僕を待っている。僕以外の誰かの隣に立つはずがない」
自分にそう言い聞かせると、胸の奥にふつふつと熱がこみ上げてくる。
それは愛情などという生ぬるいものではなく、むしろ獲物を逃すまいとする捕食者の本能に近かった。
僕が彼女を取り戻すのだ。
誰にも渡さない──再び、僕のものに。
***
スタンビートの脅威を退け、ようやく静けさを取り戻したはずの辺境伯邸。
だが、その穏やかな空気は一瞬で凍りついた。
まるで冬の嵐が扉の隙間から吹き込んだかのように、冷たく張りつめた気配が広がる。
執事のクラウスが、稀に見る困惑を顔に浮かべながら告げた。
「……ソフィア様。エリック・ウィリアム侯爵家嫡男が至急お会いしたいと、門前までお越しですが……いかがいたしましょう」
その名が落ちた瞬間、ソフィアの指先が小さく震えた。
胸の奥に封じていたはずの記憶が、乱暴に引き裂かれるようにあふれ出す。
――なぜ? どうして、今になって。
かつて愛した人。
けれど――決して愛してはくれなかった婚約者。
寄り添おうと伸ばした手は何度も空をつかみ、差し向けられた視線はいつも冷たく、遠かった。
そうして積み重なった痛みの果てに、すべてを断ち切るように婚約を破棄し、辺境伯へ嫁いできた――
それなのに。
その痛みはようやく薄れたと思っていたのに、思いがけない来訪で心の底が揺れる。
だが、揺らいだのはほんの一瞬だけだった。
ソフィアは息を整え、感情の波を静かに押し戻す。
そして、氷のような落ち着きを取り戻した瞳で告げた。
「……会いません」
淡々とした声だった。
けれど、その拒絶は鋭く、誰の心も切り裂くほど明確だった。
クラウスは驚きに息をのむ。
「よ、よろしいのですか……?」
「ええ。かつて婚約を結んでいましたが、今の私と彼の間に会う理由はありませんもの。エリック様が来られたところで、私が応じる必要はありません」
その言葉は、静かだが容赦がない。
過去を断ち切る刃のように。
レオナルドはそんな彼女を横目で見つめ、胸の奥にひやりとしたものが流れ落ちていくのをはっきりと感じた。
彼女の横顔はあくまで静かで、決意に曇りひとつない。
それがかえって、彼の心を締めつけた。
――本当に、会わなくていいのか……?
遠い王都から、突然訪れた相手。
すでに婚約者ではないとはいえ、今やソフィアの妹の婚約者でもある男。
無礼なほど唐突な来訪だが……そんな強行をしてまで来た理由が見えない。その不可解さが、レオナルドの胸の底に冷たい影を落とす。
そしてもうひとつ。ソフィアが本当に過去を断ち切っているなら――会っても平気なのではないか。
それなのに、会わないと断るのは――
その答えを知るのが怖いような、知りたくて堪らないような、相反する思いが渦巻く。
「……ソフィア」
彼は静かに彼女の肩へ手を添える。
そのぬくもりは優しいはずなのに、どこか縋るようで、かすかに震えていた。
「……会わなくて、本当にいいのか?」
ソフィアはゆっくり彼を見上げた。
「……はい。会う理由がありませんわ。私は今、レオナルド様の妻としてここにおりますもの」
過去の婚約は消え去った。
今は、この人の隣に立つのだと――そう口にする声は穏やかで、それでいて決して揺らいではいなかった。
けれど胸の内では、別の感情が静かにさざめいていた。
少しずつ心を通わせて、レオナルドの優しさを知り、彼の隣にいることを望むようになって――
だからこそ怖かった。
もしも、かつて愛した人の姿を目の前にしたら。
もしも、あの頃の痛みや未練が蘇ってしまったら。
弱い自分が顔を出し、
せっかく掴みかけた幸福を、自分の手で壊してしまうかもしれない。
――そんな未来を、想像するだけで震えてしまうから。
だからソフィアは静かに目を伏せた。
「……会わないほうが、いいのです」
その呟きは、まるで自分に言い聞かせるようで。
レオナルドはその声音の奥に潜む恐れを感じ取り、胸が締め付けられるのだった。
「レオナルド様?」
「……いや、すまない。ソフィアがそう決めたなら、会わなくても良い。クラウス、そう伝えてくれ」
低く落ち着いた声で命じながらも、内側では別の熱が音もなく広がっていく。
喉の奥が乾き、胸の内側がじりじりと焼けつくようだった。
――本当に、これでいいのか。
そう問いかける声が、何度も頭の内で反響する。
脳裏にはどうしても、あの夜の光景が蘇った。
高い熱に浮かされながら、ソフィアが縋るようにこぼした名前。
――エリック様。
彼女の唇に宿ったその響きは、弱く、儚く、それでいて切実で。
まるで心の奥底にしまい込んできた何かを、ほんの一瞬だけ零してしまったかのようだった。
そして、彼女が語った白い薔薇。
「大切な思い出だ」と震える声で漏らした理由を、今も聞けないままなのだ。
胸の奥で、静かな炎がゆっくりと燃え上がる。
それは怒りには届かず、嫉妬と呼ぶにはあまりに痛ましく、名のない熱だけがじんと残る。
「……ソフィア」
思わず呼びかけた声は、ひどく小さく、脆い。
気づかれぬほどの熱を秘めたまま、
レオナルドは彼女を守りたいと思う気持ちと、
誰にも渡したくないという焦がれる衝動の狭間でもがいていた。
***
ソフィアに会うため。ただその一心で、エリックは王都から遠く離れた地へと馬を駆った。護衛は必要最低限、風を裂くように馬を限界まで走らせて。
凍える風を切り裂くように駆け、何度も靴も外套も泥にまみれ、それでも足を止めなかった。
ソフィアの顔が見られる。あの日失ったものを取り戻す。
その希望だけが、彼をここまで連れてきた。
しかし。
「ソフィア様はお会いしないとのことです。遠路はるばるのご来訪、誠に恐縮ですが……どうぞお帰り下さいませ」
門前で告げられた侍従クラウスの言葉は、冬よりも冷たかった。
「な……!?」
エリックの表情が、瞬時に凍りつく。雪のように白い吐息だけが空に散った。
――会わない?
ソフィアが、僕に?
理解が追いつかない。いや、理解したくない。
「ソフィアは……会わない、と……? 本当に……?」
声はかすれ、震えていた。
クラウスは深く頭を下げる。
「はい。ご決断は、揺るぎないご様子でした」
その一言が、エリックの胸のどこかを鋭く穿つ。ぐらり、と視界が揺れた気がする。
……ソフィア。どうしてだ。君は、僕を……待っていたはずだろう?
王都で聞いた噂。
辺境で孤独と不便に耐えていると信じ込んでいた彼は、その痛みに寄り添うつもりでここまで来た。可哀そうなソフィアを連れて帰るつもりで。
「……そんな、はず……っ。ソフィアは僕に会いたがっているはずだ、会わせてくれ!」
縋るような声が、冷たい空気に吸い込まれる。
しかしクラウスは、わずかも表情を変えずに頭を下げた。
「申し訳ございません。ですが……無理なものは無理でございます」
淡々とした返答は、鋭利な刃のようにエリックの願いを断ち切った。
衛兵に案内されることもなく、ただ門の前に置き去りにされる。
クラウスの背が門の向こうに消えると、エリックは拳を固く握りしめた。
「……くそっ……!」
荒く吐き捨てた息が白く散る。否定されてもなお、エリックの思考は頑なだった。
――ソフィアが断るはずがない。
彼女は僕を愛しているんだ、僕との再会を拒むはずがない。
胸の奥で、ねじれた確信が膨らむ。そうだ、きっと邪魔をしている者がいる。
辺境伯レオナルド・ヴァルトが、会わせまいとしているに違いない。再び婚約者を失うのが怖いのだろう。
エリックの思い込みは、音もなく結論に到達した。
「会えないというのなら――仕方ない。強硬手段を取るしかないな」
低く呟く声には、もはや迷いも理性もなかった。
エリックは一度その場を離れた。
次に来るときは、ただ訪ねるだけでは済まないと、決意を胸に秘めて――。
次話からは、三角関係を描いていきます。
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