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16話 はじめての街歩きは、あなたと

暖炉の火が、室内を柔らかな光と温もりで満たしていた。ソフィアはひざ掛けをそっと整え、膝の上に広げた本へと視線を落とす。

ページをめくるたび、古い紙の香りがかすかに鼻をくすぐった。


窓の外をふと見やれば、一面が白く染まり、世界そのものが息を潜めているように見える。

今日も庭園を歩けないのは少し残念だけど、それも悪くないわ。家の中にいても、十分に退屈せず過ごせるもの。

そう思いながら、ソフィアは本の文字を追う。

時折、暖炉の火がはぜる音が、小さなアクセントのように響き、静かな時間を穏やかに彩った。


その静かなひとときを破るように、レオナルドの声が差し込む。


「今日も雪だな。庭園に散歩にもいけない。……こうも家の中にいては、退屈しているのではないか?」


ソフィアは本を閉じ、顔を上げて微笑む。


「いいえ。この屋敷にはたくさんの本がありますもの。読みたい本に囲まれて過ごせるなら、退屈なんていたしませんわ」


その答えに、彼はなぜか難しい顔をした。

ソフィアはかつての癖で、慌てて姿勢を正す。


「……あの。なにか、気に障ることを言ってしまいましたか?」


「違う! いや……違うんだ。謝らないでくれ」


口では否定しながらも、眉間には深い皺が刻まれていた。

そのわずかな影が、かえってソフィアの胸をざわつかせる。


「でしたら……もしかして、他にご不満が……?」


おそるおそる問えば、レオナルドは小さく首を振った。


「いや、そうじゃない。本当に違うんだ」


レオナルドは一度、視線を床に落とし、ゆっくりと息を整える。


「その、俺は……家の中ばかりでは退屈だろうと思って……一緒に街へ出られたらと……」


言葉が途中で途切れ、そう長くない沈黙の後。掠れた声で続けた。


「……デートに誘いたかったんだ」


ソフィアのまつげが、はらりと震える。

まるで心の奥をそっと撫でられたように。


「もっと、早く誘いたかった。けれど、うまい理由が浮かばなくてな……。ようやく思いついたと思ったら、否定されてしまって……ほかの理由も出てこなくて……すまない」


レオナルドは気まずそうに頭を掻いた。

耳がわずかに赤く染まり、その不器用な姿がどこまでも愛おしい。


「もっとスマートに言えれば良かったんだが、俺ではどうにも……面目ない」


デートだなんて、レオナルドには似つかわしくない言葉だった。

けれど、そんな彼が誘う口実を一生懸命に考えてくれたのだと思うと、胸の中が温かくなった。


「ふふ」


ソフィアは思わず笑みを零した。


「……そうですね。私はまだ街へ出たことがありませんし、行ってみたいです」


「そ、そうだな! まだ見せていないのは良くない。今すぐ案内しよう」


「ええ、それに……」


ソフィアは胸元にそっと手を添え、まっすぐに彼を見つめた。


「私、レオナルド様とデートに行きたいです。なので……一緒に行ってくださいますか?」


レオナルドの瞳が、驚きと喜びに大きく揺れた。


「ああ……! もちろんだ!」


その声は、冬の空気を溶かすほどに真っ直ぐだった。ソフィアはますます笑みを深くした。


二人はさっそく、デートのために身支度を整えた。

ソフィアは厚手のマントを羽織り、帽子を深くかぶる。いつもより質素なドレスに身を包み、まるで町娘のような自分が鏡に映ると、鼓動が高まってきた。


「準備はできたか?」


扉が静かに開き、レオナルドが控えめな笑みを浮かべて立っていた。

彼もまた平民の衣装に身を包んでいたが、腰に下げた剣と自然ににじむ佇まいだけは、どうしても剣士としての風格を隠しきれなかった。


「はい、準備できました。……あの、平民の装いでも格好いいですね、レオナルド様」


レオナルドは領主という立場上、どうしても公の場では周囲の視線や形式に縛られ、自由に歩くことは叶わない。だから、二人だけで気兼ねなく街を歩くために、平民の恰好をすることにしたのだ。


「そう言われるのは、悪くはないな。君の方こそ……可愛らしい。平民の服を着ても気品が滲んでしまうのが、少し心配だけれど」


「それを言ったら、レオナルド様の方こそ隠しきれていないですよ」


「……そうか?」


「ええ。整ったお顔と、その威厳……どうしても目立ってしまうんですから」


「……そうか」


レオナルドはわずかに照れたように目を伏せ、その反応がまたソフィアの胸をくすぐった。


準備を終えた二人は、屋敷の前に待つ馬車へと足を運んだ。

車輪の軋む音が、冬の森にこだまする。

道の両脇には、雪を纏った木々が立ち並び、その枝々が互いに寄り添うようにして、道の上に白い天蓋をつくっていた。冷たい風が木の間を抜けるたび、枝先の雪がさらりと舞い落ち、馬車の屋根をかすかに叩いた。

やがて木々の影がまばらになり、雪の帳の向こうに、点々と明かりが瞬きはじめた。

それは街の灯。暖かな人の営みが、闇の底からそっと顔を覗かせていた。


「……今日は週に一度に開かれる市場の日なんだ。雪が強いと中止になることもあるが、幸い今日は降雪量も少ないからな」


「市場ですか……」


「ああ、冬の間は買い物が不便だからな。雪で道が閉ざされることもある。だから週に一度、住民が必要な物資をまとめて手に入れられるよう、市場を開いているんだ。それに、温かい飲み物や焼き菓子を扱う露店が出ているから、少しは楽しめると思うよ」


レオナルドの説明に、ソフィアは小さくうなずく。


馬車は、街の入り口で止まった。

街は、白銀の世界に染まっていた。屋根瓦も、商店のひさしも、厚く積もった雪に覆われ、その縁からは凍りついた雪解け水が、細く尖った氷柱となって垂れ下がっていた。街灯の光を受けて、それらは夜の闇の中で静かに瞬いている。

空からは、ちらちらと雪が舞い落ちていた。


馬車を降りると、踏みしめるたびに雪がきゅっ、きゅっ、と乾いた音を立てる。

澄みきった冬の空気が頬を刺し、ソフィアは思わず肩をすくめた。


「寒くはないか?」


「……大丈夫です」


正直に答えれば寒かったが、レオナルドとのデートが楽しみで寒さも気にならなかった。

そして――。

今も空からは、ちらちらと雪が降っているのにというのに、前方に迫る街の光景が、彼女の心を温めた。無数のイルミネーションが雪面に反射し、人々の吐く白い息と溶け合う。

その幻想的な光景に、頬に熱がのぼり、指先にまでぬくもりが流れた。


ふたりが歩みを進めると、広場の向こうに賑わう市場が姿を現した。

レオナルドが低く告げる。


「此処が市場だ」


木製の屋台がずらりと並び、赤や金の布で飾られた天幕の下には、果実酒、焼き栗、毛糸のマフラー、異国の細工物。色とりどりの品々が、雪明かりとランプの光を受けて輝いていた。


「随分……賑やかですね」


王都では、辺境は「雪に閉ざされた寂しい土地」だと聞かされていた。

けれど、目の前に広がる光と人の息づかいに満ちた景色が、そのイメージを塗り替えていく。


「気に入ったか?」


「ええ、とても……」


屋台から漏れる笑い声や、子どもたちが雪を蹴る弾む足音――。

それらに胸をいっぱいにしながら、ソフィアは小さく笑みを浮かべ、それから恥ずかしそうに視線を落とした。


「あの……笑わないでくださいね。私、こんな風に市場を歩くのは初めてです」


「初めてなのか? 王都でも?」


「はい……決まったお店に行くことはあっても、こんなふうに街を歩くのは初めてです」


ソフィアの声は緊張して震えていたが、目は好奇心できらめいていた。

凍えるような夜の空気の中で、彼女の頬はほんのりと赤く染まっている。


「……デートで街歩きするのって、憧れだったんです」


小さく呟いたその言葉に、思い出が重なる。


「お忍びでデートすることが王都でもひそかに流行っていたことあった

のですが、私は行けなくて……」


「……前の婚約者に、駄目だと言われたのか?」


ソフィアは一瞬だけ言葉を失った。


「――ええ。平民の恰好で、平民の店を覗くなんて恥ずかしいだろう、と。それに護衛も十分に付けられず危険だと……一度も叶いませんでした」


その声は淡々としているのに、どこかに小さな痛みが滲んでいた。

その言葉に、レオナルドはわずかに目を細めた。


――前の婚約者は、そんなささやかな願いすら叶えなかったのか。


胸の奥で針の先ほどの嫉妬がちくりと刺さる。

しかし同時に、ソフィアがこうして街を歩くのがはじめてだと知り、その初々しい感動を自分と分かち合ってくれることに、ひそかに喜びを覚えた。


「そうか……。だが、俺と一緒なら護衛の心配はいらない」


国随一の剣士と謳われる男の声音は、力強かった。

ソフィアはぱちりと瞬き、遅れて頬を染めた。


「ソフィアのしたいことを、全部しよう」


「はい……っ」

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