15話 はじめての雪
その日の夜、森の向こうから冷たい風が吹き抜けていた。ソフィアはまどろみへ落ちようとしていた意識をふと引き戻され、微かな違和感に導かれるように窓辺へ視線を向ける。
暗い夜空の下、白い粒が音もなく舞い降りていた。
今、冬がこの地へやって来たのだと、そっと告げるように。
「あ……雪、だわ」
息を吐くと、白い霧のようにふわりと溶ける。
窓の外には、葉を落とし切った木々が静かに立ち並ぶ。冬の眠りについた森は、枝先にちらほらと雪を乗せ、まるで自然そのものが息を潜め、世界をそっと包んでいるかのようだった。
「もう、ここでは雪が降るのね……。辺境は寒いと聞いていたけれど、どれほど厳しい冬が待っているのかしら」
不安を含んだ呟きとは裏腹に、舞い落ちる雪から目を離せずにいた。思わず手を伸ばしたくなる衝動に駆られるまま、そっと窓を開ける。指先で舞い落ちる雪をすくい上げる。指先に触れた粉雪は、わずかに溶けて冷たさだけを残して消えていく。
不安を含んだ呟きとは裏腹に、舞い落ちる雪からどうしても目を離せずにいた。
胸の奥をくすぐる衝動に導かれるまま、そっと窓を開ける。指先を差し出すと、ひらりと雪が舞い落ち、そのまますくい取られた。
触れた粉雪は、瞬きほどの時間で溶け、淡い冷たさだけを指先に残して消えていく。
「あら、ソフィア様。窓を開けていては、また風邪を召してしまいますよ」
「雪が珍しくて、ちょっと外を見ていただけよ。直ぐに閉めるわ」
侍女の穏やかな声に、ソフィアは微笑み返す。温かい部屋の空気が、雪の冷たさと絶妙に混ざり合い、心地よい感覚が胸を満たす。
「ああ、もうそんな時期なんですね……」
侍女はそっと窓を閉め、外の世界を切り離すようにカーテンを引いた。ソフィアはベッドに身を横たえ、雪の残像を胸に抱きながら眠りについた。
その間も、外では雪が途切れることなく降り続けていた。
そして、翌朝。
カーテンを開いた瞬間、ソフィアは息を呑んだ。
窓の向こう、見慣れたはずの景色は影も形もなく、すべてが純白に覆われていた。庭の低木も、屋敷の屋根も、遠くの森も。
まるで一夜にして別世界へと塗り替えられたかのように。
淡い朝の光が雪の粒に反射して、静謐な輝きを放ち、あたり一面がきらきらと揺らめいていた。
――なんて、美しいの!
王都育ちの彼女が、これほどの雪景色を目にするのは生まれて初めてだった。胸が高鳴り、指先までそわそわと熱を帯びる。
朝食を終えるや否や、ソフィアは白銀の庭へと飛び出していった。足元で雪がきゅっきゅと鳴り、空気の冷たさが頬を撫でるたびに、心まで澄み渡るようだった。
「一晩でずいぶん積もりましたね」
後ろから追いかけてきた侍女が、ふわりと笑みを浮かべて声をかける。
「ええ、こんな一面の雪景色を見るのは生まれてはじめてよ」
ソフィアは広がる銀世界を見渡した。光を吸い込むような雪の白さは、まるで世界そのものが輝いているようだった。
触れる空気は冷たいのに、心だけは不思議と浮き立っていた。
「そうなんですか? 王都はあまり雪が降らないのですね……」
ミーナはそっと隣に立ち、懐かしむように微笑む。
「ここでは毎年、こんな風に積もりますよ。子供の頃は雪合戦や雪そりで遊んだりしました」
侍女の瞳は遠くの記憶をたどるように柔らかく輝く。
その話にソフィアは小さく笑みを漏らした。
「――ソフィア」
低く名を呼ぶ声に振り向けば、鍛錬場から戻ったばかりのレオナルドが、白い息を吐きながら歩み寄ってくる。鎧の肩先に雪が少し積もり、冷たい風に黒髪が揺れた。
「さきほどまで、鍛錬なさっていたのですか?」
「ああ。君は……?」
「こんなに積もった雪を見るのは初めてだったので、どうしても近くで見てみたくて」
そう答えると、レオナルドは数秒、黙ってソフィアを見つめた。そしてふいに、少年のような表情で口元を緩めた。
「……それなら、少し歩いてみるか。いや――遊んでみるか?」
「遊ぶ……?」
「雪国の楽しみ方を、教えてやる」
レオナルドは大きく雪をかき集め、両手でぎゅっと固めはじめた。
「まあ……雪玉? この雪玉をどうするのですか?」
「こいつで雪だるまを作るんだ。ここでは、子供の頃によくやった。こうやって雪を丸めて、大きくしていく。ほら、ソフィア。君もやってみろ」
差し出された雪の塊を受け取って、その重さによろめいた。それでもソフィアは彼の真似をして、地面に雪玉を置いて転がした。
「あら、力を入れなくても……簡単に転がるのね。転がせば転がすほど、大きくなっていくわ」
雪玉を転がすたび、雪は吸い寄せられるようにまとわりつき、丸さを増していく。重みがじわりと腕に伝わるのに、ソフィアの頬は自然とほころんでいた。
「上手いじゃないか」
「レオナルド様のほうが、ずっと綺麗な球です。わたしのは、まだ歪で……」
「かまわない。最後に形を整えればいい」
二人は無言のまま雪を転がす。風の音、雪の軋む気配、遠くで兵士たちが笑い合う声だけが静かな庭に響いた。
やがて、ふたつの大きな球が完成すると、レオナルドはそれを持ち上げ、重ねた。
そのとき、一度屋敷へ戻っていたミーアが、胸を張って駆け戻ってきた。手には誇らしげに掲げた一本の人参。その隣にはクラウスの姿もある。
「雪だるまの鼻には人参が必要だと思って、厨房から貰ってきました!」
「おお、ほとんど完成してますな」
レオナルドが適当な枝と小石を拾い集める。腕に見立てる様に、雪だるまの胴体の左右へ枝を刺した。
続けてソフィアはレオナルドから小石を受け取って、顔を形作るように雪玉へ押し込む。
そして、ミーアが差し出した人参を受け取り、ためらいがち雪だるまの顔の中央に突き刺した。
「とても……可愛いわ」
丸い目がふたつに、橙色の鼻。雪だるまは途端に、命を宿したかのように愛らしく見えた。
「でも、少し寒そう……なんて、変なことを言ったかしら」
自分でも可笑しくなって、ソフィアは肩をすくめる。命のない雪だるまを案じるなんて――そう思った矢先、レオナルドが即座に否定した。
「変じゃないさ」
その穏やかな声に、ソフィアの胸のこわばりがほどけた。安堵の笑みを浮かべながら、彼女は自分の首に巻いていたマフラーをそっと外し、雪だるまの頭と胴の間にきゅっとかける。赤い布が白に映え、ひどく愛らしい姿になる。
するとレオナルドが「ちょっと待っててくれ」と言い残し、雪を蹴って小走りに去っていった。
ソフィアとミーナが不思議そうに見守る中、レオナルドはすぐに戻ってきた。その手には、銀色のバケツがひとつ。
「帽子代わりに、こいつを被らせよう」
レオナルドは軽くバケツの底についた雪を払うと、そっと雪だるまの頭にかぶせた。
かぽん、と控えめな音がして、丸い雪の顔にちょこんと銀色の帽子が収まる。
「……まあ! 本当に帽子みたいです」
ソフィアがぱっと表情を明るくすると、ミーアも目を輝かせた。
「本当ですね! なんだか、今にも動き出しそう……!」
レオナルドも腕を組み、満足げに頷いた。
そのとき、雪だるまを眺めていたクラウスが、ふいにソフィアの方へ歩み寄った。影を落とすように身を屈め、小声で囁く。
「――ソフィア様、ちょいとよろしいですかな?」
どこか含みのある声音に、ソフィアは目を瞬かせた。
「え……? えぇ……?」
レオナルドが警戒するように眉をわずかに動かすが、クラウスは気づかぬふりで、ソフィアの両手にそっと小さな雪玉を乗せた。
「ほら、ソフィア様。遠慮なさらずに」
「えっ……? でも、良いのですか?」
「もちろんでございます! これも立派な雪国の心得でしてな!」
状況が飲み込めず戸惑うソフィアに、クラウスはにっこり笑う。
「では、どうぞ。旦那様めがけて」
「ま、待てクラウス!」
レオナルドの制止は遅かった。
ソフィアは困惑しながらも、勧められるままに雪玉を軽く放った。ひゅっ、と短い軌跡を描きながら、レオナルドの顔面に当たった。
「……っ!」
驚きに目を見開くレオナルド。
ソフィアは「あっ……! ごめんなさい。顔に当てるつもりはなかったの!」と口元を押さえた。
クラウスはもう堪えきれず、腹を抱えて笑い始めた。
「ははは! いやぁ、実に見事な一投でしたぞ、ソフィア様!」
「な、なにをする……!」
レオナルドが肩を払ってクラウスを睨みつける。クラウスは全く堪えた様子もなく、にやりと笑った。
「ソフィア様に雪遊びを教えて差し上げたのです。この辺境では、こうやって雪を投げて遊ぶのですよ」
「……余計な真似を」
レオナルドは呆れたように息を吐いたが、その目尻にはほんの小さな笑みが灯っていた。
次の瞬間、彼は無言で大きな雪玉をひとつ作り、容赦なくクラウスへ向かって投げ放った。
見事、クラウスの顔面に雪玉は命中した。
「ぐっ……! 老体に、なんて無茶を……!」
「どの口が言うか。年寄りなら、もう少し大人しくしていろ」
レオナルドの淡々とした返しに、ソフィアは思わずおろおろと視線を動かした。クラウスは大丈夫なのだろうか。
当の執事は頭を抱え、いかにも痛ましげにうめいている。けれど、その声の奥には、どうにも隠しきれない笑いがくぐもって混じっていた。
「いやはや……旦那様、相変わらず容赦がありませんな……!」
対するレオナルドも笑顔だった。
二人のやり取りがただの悪ふざけに過ぎないと気づいた瞬間、ソフィアの胸の緊張はゆるゆるとほどけ、自然と微笑みがこぼれた。
「……お二人とも、仲がよろしいのですね」
「おや、そう見えましたかな?」
思わずこぼれたその言葉に、クラウスが片眉を上げ、楽しげに口角を吊り上げる。
「見えた、というか……楽しそうで」
「それは光栄ですな。旦那様とこうして雪遊びをするのは、子供の頃以来ですが……実はこう見えて、旦那様はなかなかの負けず嫌いでしてな」
「余計なことを言うな」
やがて、雪を包む静寂の庭に、四人の笑い声が広がっていった。
まるで童心に返ったようだった。いや、思えば子供の頃ですら、こんなふうに無邪気に遊んで、声をあげて笑ったことがあっただろうか。
冷たいはずの雪の庭なのに、いまこの場所だけ、ひどくあたたかかった。
お茶目なクラウス。どうにか二人の距離を縮めたくて健気に頑張ってます。
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