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14話 夜の図書館

ソフィアがレオナルドを知ろうと努力する一方で、レオナルドもまた、ソフィアの日課を知ろうと努めていた。

庭の小道を散策すること。使用人と並んで花壇の世話をすること。読みかけの本を窓辺で静かにめくること――。


彼女のささやかな習慣をひとつずつ心に留め、できる限り寄り添おうとした。


夕食の席。

揺れる燭火が卓上の銀器に柔らかな光を落とし、静かな温もりが二人を包んでいた。

レオナルドは、向かいのソフィアがスープを口に運ぶ仕草を眺めながら、ふと気になっていたことを口にする。


「図書館には、まだ行っていないそうだが……本当か?」


問いは思ったよりも柔らかく漏れた。

ソフィアは少し照れたように視線を落とし、微笑む。


「ええ。広い屋敷で……まだ見ていない場所ばかりなのです。場所は教えていただいたのですが」


それなら、と自然に言葉が続く。


「この後案内しよう。……君が嫌でなければ」


ソフィアの返事を待つ間、わずかに息が詰まる。

断られたところで何か困るわけではない。だが、彼女に喜んでもらいたい、そんな思いが自分の中で静かに生まれているのを、レオナルドは自覚していた。


「嫌だなんて。ええ、是非お願いします」


その答えに、胸の奥がそっと緩む。思っていた以上に安堵している自分に、内心で苦笑したくなるほどだった。

グラスの縁に映るソフィアの笑みを横目で見ながら、彼は控えめな声で続けた。


「君は本が好きなのだろう? よく、読んでいるところを見かけるから……」


思ったよりも素直な言葉が口から出てしまい、レオナルドは一瞬だけ目を伏せる。

しかし、顔を上げたときには、ソフィアはほんのり頬を染め、嬉しそうに目を細めていた。


「はい、本は好きです。レオナルド様は?」


「本を読むより、外で身体を動かす事が好きだったが……子供の頃は冒険小説を読んだよ」


「まあ、冒険小説ですか。私も読んでみたいです」


その一言が、燭火よりも暖かく胸に灯る。

静かな夕食の席に、言葉にしきれない期待と柔らかな気配がゆっくりと満ちていくのを、レオナルドは感じていた。


夕食を終えると、レオナルドは静かに席を立ってソフィアへ手を差し出した。


「行こうか。……図書館は隣の棟の奥だ」


ソフィアは素直にその手を取り、立ち上がると、小さく息を整えた。

その手の温度がわずかに指先へ移ってきて、レオナルドは心のどこかが静かにざわつくのを感じる。

自分の感情がどのあたりで揺れているのか、まだはっきりとは掴めない。だが、悪くはない。むしろ、そのざわめきは心地よかった。


廊下を歩くと、夜の屋敷は昼とはまったく違う表情を見せていた。

暖炉の灯りが淡く灯るだけの静かな通路。二人の足音だけが一定のリズムで重なっていく。

レオナルドは歩きながら、そっと隣を見やる。


「ここの生活には、もう慣れたか?」


自然と口をついて出た問いだった。

ソフィアは小さく瞬き、少し考えるように視線を泳がせる。


「……ええ。まだ慣れないことも多いですが……みなさん親切ですし、暖かく迎えてくださるので、心細くはありません」


「それは……良かった」


短く返した声は想定より低く、わずかに感情を滲ませてしまった気がして、レオナルドは内心で苦笑した。


やがて、二人の前に重厚な扉が姿を現す。

古木に刻まれた紋章が、燭台の光を受けて柔らかく浮かび上がる。


「……ここが図書館だ」


レオナルドは取っ手に手を伸ばし、横目でソフィアをうかがった。

扉を見つめる彼女の瞳には、期待と緊張が入り混じっていた。


「開けるよ」


低く告げると、ゆっくりと扉を押し開けた。

その瞬間、空気が変わった。

中心には円形の吹き抜けが据えられ、その最頂部には同じく円形の天窓が設けられていた。夜空を切り取ったようなその窓から、月光が惜しみなく注ぎ込んでいた。

夜の図書館は、昼とはまるで違う。ソフィアは息を呑んだ。


「まあ……」


吹き抜けを囲む書架は円を描くように配置され、どこへ目を向けても知識の壁が続く。

中央に伸びる螺旋階段は、緩やかな弧を描きながら上階へと伸びていた。


紙と革の甘い香り。木の温度。

そのすべてを包む銀の光が、この図書館を夜の聖堂のように神秘的にしていた。


ソフィアは、目の前の光景にしばし言葉を忘れた。


そして、その横顔を見たレオナルドの胸に熱が灯る。

もっと彼女に、この屋敷に馴染んでほしい。もっと、この場所を好きになってほしい。そんな想いが、静かに形を帯びはじめていた。


「夜の図書館が好きなんだ」


自分でも驚くほど、声が低く柔らかく響いた。

ソフィアが振り返る。月光に照らされた彼女の瞳は、湖面のように澄んでいた。


「わたしも、たったいま好きになりました。……とても、静かで……まるで息をひそめて物語が眠っているみたい」


その言葉に、レオナルドはやわらかく笑んだ。

書棚の間を進むと、古い紙の香りがふわりと漂った。長い年月を経た本の背が並び、木の床が軽くきしむ。


「君は、冒険小説を読むのか?」


「いいえ。普段は美術書や歴史書が多いですね。本当は……小説も好きなのですが……貴族令嬢らしくない、と言われてしまって」


「そうなのか? 俺は、そうは思わないが……。君が興味があるなら、此処にある本は好きに読むと良い。きっと、気に入る本がある筈だ」


ふと、レオナルドは足を止めた。


「ああ、この本。子供の頃に読んだ本だ」


書架の一段を指先がなぞる。


「母が……眠る前に読み聞かせしてくれてね。早くなくなってしまったのだが……眠れない時はひとりで此処にきて読んだものだよ」


そこで一度、言葉が途切れる。記憶に触れてしまい、思わず息を吸う仕草が固くなる。

ソフィアはその些細な変化を見逃さなかった。


「……その……お母様のこと、恋しかったのでしょうか」


幼い彼が、眠れない夜にここへ足を運ぶ姿が、ソフィアの脳裏に浮かぶ。

問いというより、そっと寄り添うように落とした声音だった。


「恋しかった……? いや、そんなふうに考えたことはなかったな」


穏やかに否定したものの、その声の奥にはかすかな揺らぎがあった。

ソフィアは胸に手をそっと添えるように続けた。


「あなたの悲しみと比べたら、取るに足りないことかもしれませんが……。妹が生まれてから、家族は皆、妹に夢中で……その分、私は少し蔑ろにされてしまって。寂しい気持ちになることがありました」


レオナルドは顔を上げた。

ソフィアが辛い過去を語りながら、肩を震わせている。――それは、彼にも覚えがある痛みだった。


「だから……眠れない夜に、ひとりで本を読みに来るレオナルド様を思い浮かべると……胸が、少しだけ痛むんです。その……きっと、寂しかったのだろうな、と」


その言葉が落ちた瞬間、心臓を撫でられたようだった。

閉ざしたままでいたはずの扉に、そっと触れられたような感覚だった。


「……そんなふうに言ってくれたのは、ソフィアだけだ」


レオナルドは視線を落とし、書架の影を見つめるように言葉を継いだ。


「そうだな。……母の思い出に触れたくなるくらいには――俺は、寂しかったのかもしれない」


吐き出した途端、胸の奥に長く沈んでいた重みが、ゆっくりとほどけていくのを感じた。

こんなことを口にする日が来るとは思わなかった。

けれど、不思議と後悔はなく……むしろ、肩の力が抜けていく。


辺境伯家の次期当主として、幼い頃から「強くあれ」と叩き込まれてきた。

強くあろうと努めた。

母が亡くなったあの日さえ、涙を見せることは許されなかった。


けれど、今。

そんな自分が、こうして――ソフィアには全てをさらけ出している。


湧き上がる戸惑いは、なぜか苦くない。


「……ひとりで抱えなくて、いいんですよ」


弱さを見せても拒まれないということが、これほど胸に沁みるものだとは。

誰かの前で心を開けるということが、これほど救いになるとは――。


「ああ。……ありがとう」


ソフィアは微笑み、そっと書架の一冊へと手を伸ばす。


「この本……よければ、読ませていただいても?」


「勿論だ」


レオナルドは彼女の手を重ねる様に本を手にとった。

静寂の図書館に、ふたりの鼓動だけが寄り添うように溶けていった。


**


翌日の夕刻。

レオナルドの意識は、昨夜からずっと彼女の方へと向いたままだった。

ソフィアが夕方になると庭を散策していると知ると、その時刻には自ら外套を羽織り、庭へ足を運んだ。

夕陽を浴びる緑の小径に彼女の姿を見つけると、足が速くなる。


「ソフィア……」


呼ぶ声に、ソフィアが振り返った。


「……レオナルド様。お仕事の最中では?」


「ああ。だが、窓から君の姿が見えて……休憩がてら君と一緒に散歩しようと思ったんだ」


ほんのわずかに歩調を合わせ、隣に並ぶ。


「……日が傾くと、花の香りがいっそう濃くなるのだな」


不器用な言葉ではあったが、それは彼なりの会話の糸口だった。

ソフィアは驚きに目を瞬き、やがてそっと笑みを返す。


「……よく、お気づきになられましたね」


「いや、君と歩くようになって気づいた。今まで、香りなど意識したことはなかった。……そもそも、庭園に興味を持つこともなかったからな」


この庭園は、ソフィアが来るまで、長らく手入れがされていなかった。前辺境伯は量の防衛と魔物の討伐に追われ、息子であるレオナルドもまたケント線上に身を置き、庭園へと心を向ける余裕はなかったからだ。

けれど、ソフィアが戻ってきたことで、庭園はかつての美しさを取り戻しつつあった。


「季節ごとに香りも変わります。今は金木犀の香りが強いですが、春になれば薔薇の匂いが広がるでしょう」


「そうなのか。楽しみだな……」


「ふふ……春になったら、花がたくさん咲きますよ」


「……ふむ。ならば、その時期も一緒に歩かねばな」


ソフィアの頬が自然と緩む。

たった一言でも、未来を約束するような響きを持っていた。


そう、遠くない未来の約束。

来春、花が咲きそろう庭園を、並んで歩く自分たちの姿が思い浮かぶ。かつて、叶わぬまま散ってしまった約束とは違う。今度こそ、指先に触れられる距離で、確かに形となる未来。


その想像だけで、ソフィアは心の中がふっと明るむのを覚えた。


「……はい。是非、一緒に庭園を散策しましょう」


レオナルドは彼女の表情に気づき、ほんの一瞬だけ口元を和らげる。


互いの言葉はまだ慎重で、遠慮がちな間合いもあった。だが確かに、二人の穏やかな生活のひとつひとつが、辺境の厳しい空気の中で柔らかな色を添えていることを、少しずつ理解していった。

二人の間に流れる空気は変わり始めていた――。


星空の下で差し出された掌の温もりは、日々の小さな心遣いへと形を変え、ふたりの間に確かな信頼が生まれていた。

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