12話 星降る静夜に触れた、本当の貴方
夕食を終えたあと、ソフィアはランタンを手に歩くレオナルドの背中を追い、中庭のさらに奥へと歩を進めていた。
日はすでに沈み、屋敷の外には深い夜の帳が静かに降りている。
冷たい夜気が頬を撫で、遠くでは虫の音がかすかに響いていた。
「この先に、何かあるのですか?」
「……ああ。たいしたものではないが、王都では滅多に見られないだろう」
一体、何を見せようと言うのか。ソフィアは視線を上げ、問いかけるように彼を見た。
その仕草を横目でとらえた彼は、ふと歩みを止める。そして、静かに息を吐くように一歩近づいた。
「寒いだろう」
短い言葉とともに、彼の外套がふわりとソフィアの肩に落ちた。
厚手の布地には彼の体温が残っていて、夜気の中でもそっと温もりが伝わった。
「あっ……ありがとうございます……」
「……また風邪を引かれては困るからな」
ぶっきらぼうとも取れる彼の言葉に、ソフィアは外套の端を押さえながらそっと足を速めた。
夜の静けさが二人の足音を包み込み、淡い月光が茂みへ影を落とす。
そして、庭の奥。茂みが途切れた開けた場所へ踏み出した瞬間、ソフィアは息を呑んだ。
頭上いっぱいに広がる満天の星。
雲一つない天蓋に、数えきれない光の粒が散りばめられ、瞬きながら深い闇を照らしている。まるで、手を伸ばせば指先に触れられそうなほど。
光のない辺境だからこそ見える、圧倒的な夜の輝きだった。
「……まあ……」
その美しさに、ソフィアはしばし言葉を失った。
胸の奥に、静かな感動が満ちていく。
「どうだ? ……綺麗だろう」
「ええ、綺麗です。確かに、王都ではこんな星空は見られません」
「王都は灯りが多くて、星が霞んでしまうからな」
レオナルドは空を見上げたまま、ゆっくりと続けた。以前、王都から来た人間がそう言っていたのを思い出したのだ。
そして、宝石やドレスよりも花を好むソフィアなら、この光景を喜んでくれるのではないかと考えた。横目に映るソフィアの頬が、夜気に染まるようにほんのり赤く色づいているのを見て、その選択が間違いではなかったと安堵の息を吐く。
「ここでは、夜が本来の姿を見せてくれる」
ソフィアは彼の横顔をそっと見つめた。
普段は寡黙で表情を崩さない彼が、今はどこか穏やかに笑っている。
星明かりに照らされたその横顔が、いつもよりも近く感じられた。
「……本当に、綺麗です」
その言葉に、レオナルドは彼女の方を振り返る。
星の光がソフィアの髪に反射して、淡く光を宿していた。
「君に見せたかったのは、これだ」
「わたしのために……?」
「君が、花を好きだと言ったからな。……自然の美しさは、どこにいても変わらない。その、……この地を好きになれる理由が、ひとつでも増えたらいいと思った」
レオナルドの言葉は、不器用なほどまっすぐで、胸の奥に静かに落ちていく。
ソフィアはしばらく夜空を仰いだまま、呼吸を忘れそうになっていた。
本当に綺麗だわ……。ただそれだけなのに、心を奪われる。
白い息がほう、と夜気に溶ける。
その瞬間、胸の奥で懐かしい痛みがふと疼いた。
――同じ星を……あの人も、同じように見ているだろうか。
気づけば、かつての婚約者の面影を探している。もう終わった縁だと分かっているのに、習慣のように心が彷徨う。そんな自分が情けなく、ソフィアは唇を噛んだ。
「君は……まだ前の婚約者のことを引きずっているのだろう」
レオナルドの声は低く、しかし責める色はなかった。
ソフィアは慌てて否定しようとしたが、声は震え、喉に詰まる。
「ちが……っ」
短く、しかしどこか震えた返事。唇の端に残る言葉は、宙に溶けて消えそうだった。
胸の奥に積もった時間の重さが、自然と彼女の肩を俯かせる。
エリックのことを想い続けた日々は、彼女にとってもはや習慣になっていた。夜更けに窓辺から星を見上げては、どこか遠くで同じ星を彼も見ているだろうかと考える。日常のふとした瞬間、無意識にあの人の在り処を探してしまう自分がいたのだ。
ソフィアは俯き、星明りに濡れた瞳を隠すように頭を垂れた。
「すみません……嫁いだ身でありながら、まだ、癖のように……考えてしまって……」
レオナルドはすぐに首を横に振った。冷たい夜風を裂くその声は、驚くほど柔らかった。
「いや、いいんだ。当然のことだ。長い歳月を共にいた相手を、簡単に切り離せるはずがない」
その言葉に、ソフィアの肩から少しずつ力が抜けていく。責められると思っていたのに、代わりに与えられたのは理解だった。
レオナルドは夜空を見上げ、吐息をひとつこぼす。
「俺も同じだ。前の婚約はうまくいかなかった。その過去に囚われたままだ。……あれから、恋愛事には臆病になってしまった」
「その、前の婚約者は……」
「ああ、表向きは病欠とされているが……情けないことに、実際には逃げられてしまったんだ。婚約期間中にこんな土地には嫁に来れないと向こうが根を上げてしまってな。そればかりか、俺が……話下手なせいで、嫌われてしまったんだ」
思いもよらぬ事実に、ソフィアは思わず目を瞬かせた。
「俺は……話すのが得意ではない。何を言えば相手が喜ぶのかも分からん。言葉ひとつうまく返せなかった俺は、彼女が怒らせてばかりで……気づけば距離を置かれていた」
レオナルドは苦く笑い、無意識に拳を握りしめた。
「君と話すときも、そうだ。君が、俺の沈黙を気にしていると分かっていても、なお。……緊張して何を話せば良いのか分からないんだ」
意外な告白だった。
戦場で“氷の獅子”と呼ばれ、誰もが恐れる男が、いまはまるで少年のように言葉を探している。
冷厳な印象しか持っていなかったその姿に、ソフィアは思わず息を呑んだ。
「戦場では何百の兵を動かすのに、君の前では言葉ひとつ出てこない。……情けないだろうだ」
その声音には、自嘲と、どこか居心地の悪さを隠しきれない気配があった。
けれど、星明かりの下で見せたその表情は、不器用な優しさに満ちていた。
ソフィアの胸の奥で、何かが静かにほどけていく。
彼の不器用な言葉が、嘘のない誠実さとして響いていたからだ。
「そうだったのですね。てっきり、嫌われているのかと……」
セリシアが伏せたまつげを震わせると、レオナルドはわずかに息を呑んだ。
「そんなことはない。……いや、誤解させてしまって本当にすまなかった。君の以前の婚約者に比べたら、俺など女性を喜ばせる術も知らんつまらない男だろう。君を見ていると、なおさら……がっかりさせているのではないかと思ってしまう」
ソフィアは小さく首を振る。
「そんな……がっかりだなんて、思っていません」
ソフィアは胸元に両手を持っていき、握りしめた。
「……いまだに、以前の婚約者のことを思い出してしまう時はあります。長い間、思い続けていたせいでしょう。でも――」
視線を上げたその瞳は、揺れながらもまっすぐだった。
「それでも、レオナルド様と比べようなんて、思ったことは一度もありません。それに、レオナルド様がわたしのことで悩んでくださっていたと知って……嬉しいのです」
言葉にした瞬間、胸の奥が熱くなる。自分でも驚くほど素直な声音だった。
レオナルドの肩が、かすかに揺れた。
「……嬉しい?」
「はい。辺境伯様が、わたしに冷たくされているのではなく、どう接すればいいのか迷っておられただけなのだと分かって……ほっとしました」
それに何より――、わたしがレオナルドの態度に傷ついているのに気が付き、逃げずに向き合ってくれた。自尊心に傷がつくと分かっていても、それでもなお、恥を忍んで弱さを見せてくれた。
わたしの気持ちを優先してくれたことがこの上なく嬉しかった。
「お話ししてくださって、ありがとうございます」
レオナルドは視線を逸らし、星々の瞬く空を仰いだ。
「俺の方こそ……。こんな辺境の土地へ嫁いできてくれたことに君には感謝しきれない」
その横顔は、遠い星の光に照らされて硬さを失い、穏やかな温もりを帯びていた。
「俺たちはまだ、出会ったばかりだ。だから焦る必要はないと思っている。少しずつ、お互いのことを知っていけばいい。
俺は……君を好ましく思っている。結婚したのだから、信頼関係を築いていきたい。そして、いつか――愛し、愛される関係になれたら……素敵だと、そう思う」
ソフィアは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じ、そっと彼を見上げた。
彼の大きな掌が差し出される。星の光に照らされたその手は、剣を振るう力強さを宿しながらも、今はただ温もりを伝えるために差し伸べられていた。
ソフィアは躊躇いながらも、その手に自分の指を重ねる。夜の冷気の中で、その温かさはひどく心強かった。
「わたしも、そう思います」
この人となら……、幸せな結婚ができるかもしれない。
そして、いつか――かつての婚約者のことも、忘れる事も出来るだろうか。
囁きは星明かりに溶け、静かな夜に吸い込まれていく。
二人の間に、まだ脆く小さいけれど、確かな絆が芽生え始めていた。
ようやくスタートに立ったふたり。これから二人は徐々に距離を縮めていくはずです。
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