11話 届きそうで届かない距離
熱は数日のうちにすっかり引いた。
医師の言葉どおり、ただの疲労と寒気からくる微熱だったらしい。それでも、寝台に伏して過ごした日々のあいだに、身体は思いのほか鈍ってしまっていた。
久方ぶりに外へ出た夕暮れ――
ソフィアは、そっと庭園へと足を運んだ。
冬の気配を孕んだ冷たい風が頬をかすめ、枝先の枯れ葉がかすかに震える。沈みゆく陽は世界をやわらかな茜に染め、遠い空までそっと滲ませていた。吐く息が白くほどけ、夕光に透けて淡い金の粒になる。
「……やっぱり、外の空気は気持ちいいわね」
思わずこぼれた言葉に、自分でもほっと息を漏らした。
胸の奥に張りつめていたものが、ゆるやかに解けていく。一夜の熱で重たかった身体も、もうすっかり軽くなって、ようやく普段の自分に戻れた気がした。
そのとき、背後から足音がした。振り返ると、暮色を背にレオナルドが立っていた。
心臓が跳ねる音が鮮明に響く。思わず息を呑み、手が少し震えた。
「レオナルド様……お久しぶりです」
声にわずかな緊張が混じる。
寝込んでいた間、彼と顔を合わせることはなかった。食卓も別々で、互いに言葉を交わすこともないまま数日が過ぎていたのだ。
「ああ……体調は、もう大丈夫なのか?」
「はい。もうすっかり。ご心配をおかけしました」
言葉を交わすと、ふたりの間にやわらかな沈黙が広がった。枝先の葉がそよぎ、そのざわめきが静かな空気を埋める。
やがてソフィアが、小さく首を傾げるようにして微笑んだ。
「どうかなさいましたか? いつもお忙しそうですのに……庭園にいらっしゃるのは珍しいと思いまして」
本当は、あの夜のことを尋ねたかった。看病してくださったのはレオナルド様なのですか、と。言葉にする勇気は、まだ出なかった。
レオナルドは一瞬、言葉を選ぶように視線を逸らし、短く息をついた。
「……ああ。その……君が庭園の手入れを始めたと聞いてな」
ソフィアの表情に一瞬、影が差した。
「……あの、勝手に前夫人の庭園を手入れしたことが、気に障りましたか?」
「いや、そんなことはない。母はもうこの世にいない。今は、君がこの館の女主人のようなものだ。好きにしていい。むしろ、放置されていた庭を整えてくれて感謝している」
その言葉に、ソフィアの肩の力がふっと抜けた。
だが、そこで会話が途切れた。再び、互いの呼吸だけが静かに聞こえる時間が訪れる。
ソフィアは、指先をそっと重ね合わせ、視線を伏せた。その仕草に、気まずさと戸惑いが滲む。
レオナルドは――、自らの不器用さを呪いたくなった。どうして言葉が続かないのか、胸の奥で焦りが渦を巻く。それでも、逃げてはいけないと自分に言い聞かせるように、彼は必死に次の言葉を探した。
「新しく、花を植えたそうだな」
「はい」
「……君の好きな花は何だ?」
「……え?」
思いもよらない問いに、ソフィアは目を見開く。まさかそんなことを聞かれるとは思わなかった。レオナルドが会話をつなごうと、懸命に絞り出した質問だとは、彼女は知る由もない。
「好きな……花? 私の、ですか?」
「そうだ」
ソフィアは、思案するように視線を落とした。
「そうですね。私は……白い薔薇が好きです」
その言葉を紡いだ瞬間、胸の奥にそっと沈めていた記憶が蘇った。
かつて婚約者だったエリックが贈ってくれた一輪の薔薇の花。君に良く似合っていると、指先でそっと髪に挿してくれた。
家族から必要とされていないと感じていたあの頃の私にとって、その記憶は、確かに支えとなっていた。
たとえ婚約が解かれた今でも――、その記憶だけは、痛いほど鮮やかなままだ。もう二度と戻らない時間の、優しい欠片として。
「どうしてだ?」
「……思い出の花ですから」
「どんな思い出だ?」
その問いに、ソフィアの唇がわずかに震えた。指先がかすかに震え、視線が揺れる。
返答を間違えたと、苦い思いが喉の奥に広がった。まさか以前の婚約者から贈られたとは、とても言えない。
口を開きかけて、けれど言葉は喉の奥で止まった。
沈黙がふたりの間に落ちる。
そよ風が、何も言えない二人の間を通り抜けていった。
レオナルドはソフィアの横顔を見つめ、言葉を飲み込んだ。彼女の表情に浮かぶ切なさが、すべてを語っていたからだ。
熱にうなされた彼女が、男の名前を呼んでいたのを思い出す。
「……そうか」
短い返答が、静かに落ちる。
ソフィアは視線を逸らし、気まずそうに自身の指を握った。
「新しく植えた花を見せてくれないか」
ソフィアの肩が小さく揺れる。
「あ……はい。こちらです」
ソフィアは、レオナルドの前をそっと先導するように歩き出した。
庭の奥、沈みかけた陽の残り香に照らされた花壇には、新しく植えられたばかりの苗が整然と並んでいた。まだ花は咲かせていない。
ソフィアがそっと手をかざして指さすと、レオナルドも視線をそろえて同じ花を見つめた。
「君が選んだのか。これは……なんという花だ?」
「ええ。スノードロップという花です。雪解けの頃に、小さな白い花を咲かせるそうです」
「そうか……」
気まずさを感じたまま質問に答えるソフィア。視線は向こう側の花壇へ向け、誤魔化すように言葉を続ける。
「あちらにもヴィオラやパンジーを植えました。春になれば見ごろを迎えるでしょう。……その、レオナルド様はご興味はないのでしょうが」
自嘲気味にそう付け足した声は、風に溶けるほど小さかった。
「そんな事は……あるな。花には、興味がない」
レオナルドは視線をそらし、夕陽に染まる空をぼんやりと見つめる。
ソフィアは肩をわずかに落とし、言葉を飲み込むように小さく息をついた。
「だが、……君は、花が好きなんだな」
だが、続いた声は驚くほど穏やかだった。不意を突かれ、ソフィアはゆっくりと瞬きをする。
レオナルドの声音は、先ほどまでよりも柔らかく、どこか遠い記憶を辿るようだった。
「ええ……慈しめば、綺麗な花を咲かせてくれますもの。花は、好きです」
「そうか。……宝石やドレスよりも?」
質問の意図が掴めず、ソフィアは戸惑いながらも答える。
「ええ……そうですね」
レオナルドはしばし遠くを見つめ、考え込むように視線を泳がせる。
そして、言葉を慎重に選ぶように、そっと口を開いた。
「それなら……君に見せたいものがある。夕食のあと、少しだけ時間をくれ」
「見せたいもの、ですか……? ……分かりました」
ソフィアはわずかに首を傾げながらも、静かに頷いた。




