10話 熱に魘されて
その夜、ソフィアが気づいた時には、身体の奥底にじんと熱を抱えていた。額に手を当てると、火のように熱い。朝から続いていたわずかに倦怠感が、日が沈む頃にははっきりとした重みに変わっていた。
ソフィアがこの地にやって来てから、もう半月ほどの時間が経っていた。
見知らぬ土地、見知らぬ文化、見知らぬ人々――。そのすべてに気を配り、少しでも迷惑をかけまいと、張り詰めた心で懸命に日々を過ごしてきた。だが、その細く強く張り詰めた糸は、とうとう軋みを上げてしまったようだった。
夕食の席では、料理はほとんど手つかずのままだった。胸の奥にかすかな息苦しさを覚え、早めに席を立つ。
自室へ戻るなり、ふと視界が揺れ、立ち眩みに襲われた。寝着に着替える間もなく、ベッドに身を投げ出す。柔らかな寝具の感触が、逆に身体の重さを際立たせた。
「ソフィア様!? どうなさいましたか?」
「実は、今朝から具合が良くないの……」
戸惑うミーナに不調を告げると、彼女は顔を青ざめさせ、慌てて医者を呼びに走った。医者が到着したのは、それからしばらくしてのことだった。
「恐らく、疲労と気温差のせいでしょう」
そう言って医者は薬をミーナに託し、静かに部屋を後にした。
ミーナが薬を丁寧に飲ませてくれたあと、「どうかお休みくださいませ」と囁いて、そっと退室する。
扉が閉まる音がして、部屋には再び静けさが戻った。
……大丈夫。少し休めば。
そう思っても、心のざわめきは収まらなかった。
この屋敷に来てから、レオナルドと心弾むような会話を交わした覚えはまだ一度もない。同じ食卓を囲んではいるものの、必要最低限の確認事項を述べるだけ。それ以上の会話は続かない。
そして訪れる沈黙――それが今夜は、いつにも増して重く、胸に残った。
瞼の裏がじんわりと熱く、意識は次第に薄れていく。浅い眠りと覚醒のはざまで、熱の中を漂うような感覚。身体の芯が焼けつくほど熱いのに、頬を伝う汗は冷たい。
……熱い、苦しい。けれど、手が動かない。
そのとき、夢と現の境で、静かに扉の軋む音がした。柔らかな足音。衣擦れの音。誰かが傍へと近づき、そっと額に手を当てる。
その指先は、驚くほど冷たかった。そして、やさしかった。
ひやりとした掌の感触が、火照った皮膚をやさしく撫でる。その心地よさに、ソフィアの喉からかすかな息が漏れた。
「……つめたい……」
意識の底で、誰かが濡れ布を絞る音が聞こえた。
やさしい指先が髪を払いのけ、汗を拭ってくれる。
額に、冷たい布がそっと触れた。ひんやりとした感触が、燃えるように熱を帯びた肌を優しく鎮める。
――この感じ……前にも、あったわ。
助けを求めるように、ソフィアは手を伸ばした。すぐに、その手をぎゅっと握り返してくれる。
ああ、そうだ――あのときも、こうだった。
まだ王都にいた頃。
病に倒れたとき、エリックがそっと手を握り、「大丈夫だよ、すぐ良くなる」と優しく声をかけてくれた。あのときの安心感が、今ふたたび胸を包む。
胸の奥が、きゅうと疼いた。忘れたくても忘れられない、優しい声の記憶が蘇る。
熱に霞む意識の中で、ソフィアは唇をわずかに動かした。
「……エリック様……」
掠れた声は、夜気に溶けて消えた。しかし、返るはずの声はどこからも聞こえない。
不思議に思い、もう一度名を呼ぶ。
「……エリック様?」
重たいまぶたをようやく持ち上げると、視界に移ったのは、それは、記憶の中の優しい少年ではなかった。
淡い灯りの中には、レオナルドの姿があった。
氷のように冷たいと思っていたその瞳が、今はどこか、苦しげに揺れて見えた。
――どうして……あなたが……。
掠れる声とともに、ソフィアの瞳が微かに揺れた。けれど、言葉の続きを紡ぐ前に、意識はふたたび深い闇の底へと沈んでいく。
ただ、最後に感じたのは、額にそっと触れた大きく頼もしい手のひらだった。
その感触だけが、遠のく意識の中でいつまでも離れなかった。
レオナルドは、言葉もなくその寝顔を見つめ続けた。
白い頬に滲む汗、苦しげに動く睫毛。そのすべてが、どこか痛ましく胸を締めつける。
「……すまない」
低く落とした声は、果たして何に対して向けられたものなのか。
謝罪の言葉は夜気の中に吸い込まれ、彼女の耳には届くことはなかった。
***
次に、ソフィアが目を覚ますと、窓辺には淡い朝の光が差し込んでいた。
薄いカーテンが風に揺れ、夜の冷気の名残をそっと運んでくる。
重たかった身体が、少しだけ軽くなっていた。熱はどうやら下がったようだった。
枕元には、薬瓶と水差し。
そして、その隣には水の張った盥と、不器用に折りたたまれた布が置かれていた。
「ソフィア様……! お気づきになられたのですね!」
顔を上げると、侍女のミーナがほっとしたように微笑んでいた。夜通し付き添っていたのだろう、瞳の下には薄く影がある。
「……ミーナ。ごめんなさい、心配をかけたわね」
「いいえ! 今朝はずいぶん顔色がよくなって……本当に安心しました」
ソフィアはゆっくり上体を起こし、枕の上に手を伸ばす。
濡れ布はまだ少しひんやりとしていた。
「……夜中に、どなたかがこれを額に当ててくださったのね」
ミーナが一瞬、視線を泳がせた。
「ええ……私が下がった後に、どなたかがいらしたようです。戻ったときには、すでに濡れた布が額に乗せられていて……」
「どなたが?」
「それが……どの使用人が手配したものか分からず、申し訳ありません……」
ソフィアは息をのんだ。
昨夜、朦朧とした意識の中で感じた冷たい指先。
額をそっと撫でたあの仕草。
「……あれは夢ではなかったのね」
夜中、レオナルドが自分の看病をしてくれたのは……夢ではなかったのだ。
ソフィアの身体に微かな震えが走った。
彼の無口な横顔、氷のような瞳が脳裏に浮かぶ。
けれど、その冷たさの奥に、ふと灯る小さな優しさを、彼女は昨夜たしかに感じていた気がした。
額に残る温もりを追うように、掌をかざし、ソフィアは目を伏せた。
ああ、どうして。わたしを嫌っていたのではないの――?
体の奥に、柔らかな残響のような温かさが広がっていった。




