彼女の救世主
わたしにとって、世界は、お屋敷だけだった。
そのお屋敷は人間が暮らすには大きかったけれど、一生を暮らす世界としてはあまりに小さかった。
だからわたしは本を愛したのだと思う。
本の中ならば、どこにでも行けた。もちろん——読むことはできても想像できない場所はいっぱいあったけれど。
海ってなに?
山ってなに?
湖って? 川って?
類い希なる魔法への適性がわかってから、わたしは外に出られなくなった。
それを哀れんでくれたお屋敷のメイドがいて、彼女はわたしに様々なことを教えてくれた。本の読み方、彼女が見たこともない世界のこと、それから——人を愛するということ。
そんなメイドは、わたしに「余計な智恵をつけている」と告げ口されて、解雇されてしまった。お別れを告げることもできなかった。ある日、メイドの姿が見えなくなって、
あの人はとたずねると、
——もう二度とお嬢様の前に現れることはないでしょう。
素っ気ない答えが返ってきた。
わたしは本を読んで日々を過ごした。「日々の無聊を慰める」なんて言葉を知ったのも本を読んだから。
そうしていくうちに心がどんどん摩耗していくのを感じていた。
わたしはやがて、「兵器」として利用される。
そんな暗い未来予想図だけがわたしの前には広がっていた。
強い雨の降る、夜だった。
わたしと年齢もたいして変わらない少年が、お屋敷に閉じ込めていたわたしの父を殺し——不思議と彼を怖いと思わなくて——それから護送されるわたしを解放してくれた。
冒険物語に出てくる英雄みたいだと思った。
重荷だと言ったわたしを、いとも軽々と救い出してしまったのだから。
そしてダンジョンの踏破さえしてしまったのだから。
色彩を失っていたわたしの毎日が、急速にカラフルなものへと変わっていった。
街の外には森が広がっていた。街道を商隊が行き来していた。川には小さな橋が架かっていた。ホットドッグは信じられないくらい美味しかった——ヒカルは「辛すぎて無理」って言っていたけれど。
ヒカルがなにか重要なことを隠していることはわかっていた。
だけれどそれで、ヒカルを疑ったりヒカルに対する信頼がなくなったりすることなんて、なかった。
だって、わたしにとってヒカルは、命の恩人で、わたしに自由を与えてくれた英雄で、そして——たぶん——わたしが生まれて初めて、好きになった人だから。
ヒカルがソウルボードという特別な能力を持っていることもわかった。
わたしに「隠密」という能力を与えてくれたのだから、信じざるを得ない。
彼がどこまで認識しているかわからないけれど、彼の能力は——とてつもない。
その気になれば剣の達人を量産できるなんて、人の身ならぬ神の所業。
彼がその秘密をひた隠しにするのはよく理解できた。
わたしに打ち明けてくれた——その信頼がうれしくて、わたしは思わず泣きそうになってしまう。
だからこそわたしは、ヒカルの役に立ちたい。
わたしの希望なんて聞かなくていい。伸ばせる能力の限界が、ポイントによって決められているのなら、ヒカルのできないことをわたしは補いたい。
だって——あまりに多くのものを、わたしは与えられたのだから。
* *
翌朝、ヒカルはラヴィアとともに準備を整えると街の外へと出た。
なだらかに傾斜している草原が広がり、その先には森林地帯だ。
北に目を向ければ青々とした山が広がっている。
街の外で乗合馬車を見つけ、北へと向かう。
ヒカルの気持ちはすっきりしていた。やはり、ラヴィアに話せたことが大きいのだと思う。
そうしてラヴィアにも心境の変化があったのか、いつも以上にヒカルに寄り添うように立っていた。ほとんどずっと手をつないで過ごしていた。
その日1日は移動で費やした。
山の麓にある小さな街で宿を確保した。夕食を取りに街へと繰り出すと茜色の夕焼けが街を染め上げていた。
「すごく大きな夕陽」
西の森林地帯に落ちていこうとしている太陽を見つめて、思わず、といった感じでラヴィアがつぶやいた。
どこかで子どもたちの遊ぶ笑い声が聞こえる。
漂ってきた炊事の——肉を焼くニオイに空腹を感じて、ヒカルはラヴィアとともに1軒の酒場へと入った。というより食事処がここしか見当たらなかったのだ。
「あらまあ、小さなお客さんだね。旅かい?」
気のよさそうな、でっぷりした女将さんが注文を聞きに来る。
「そんなところ。お勧めの食事を適当にいただけますか?」
「あいよっ」
店の入りは半分、といったところ。
吟遊詩人とでも言うのか、あるいは流しのミュージシャンとでも言うのか、ギターによく似ているリュートを抱えた女が店の隅に現れた。
赤い髪の彼女はスツールに腰掛けると、リュートを抱え直してポロポロンと音を確認する。
そうして歌い出す。
——その昔、鳳の血を引く男がいた。
彼は自由を求めて、厳格な家を飛び出した——
それは男を主人公とした叙事詩だ。
聞いていると「黄なる虎の血を引く者」とか「赤き竜の血を引く者」とか、どうもルマニアの氏族に関するキーワードがある。
女将さんが持ってきたソーセージ、ハム、葉物の野菜をつまみながら歌に耳を傾ける。自由を求めた男は結局、祖国の戦争のために呼び戻された。敬愛する兄が戦死したという。
——こういうのもいいなとヒカルは思った。
書物ではなく、音楽とともに耳から聞く。
「まーたルマニアの歌かよ」
「もうちっと気の利いた歌を聴きてぇもんだな」
よそのテーブルからそんな声も聞こえた。
この街は、ルダンシャの街だ。ルマニアのことを歌った歌はイヤなのかもしれない。
(この国は……いや、国と言っていいのかもわからない有様だ。結局小国であった意識がまったく抜けていないんだ)
ヒカルの脳裏にちらりと、緑髪の顔が思い浮かぶ。
彼はこの国の未来を憂えていた。
——男はついに困り果て、緑の鬼とささやきごと。
緑の鬼は鳳の血をもらい受け、戦いを止めるため、駈け回る——
(緑の鬼……リーグの氏族も確か、緑鬼だったな……)
ふと目を上げると、こちらを見つめているラヴィアと視線が合った。
ラヴィアの食事を摂る手は完全に止まっている。じっとヒカルを見つめていた。
「……なにかご用ですか? お嬢さん」
「ヒカルはなにを考えているのかしら、って」
「たいしたことじゃないよ」
「この国を救うべきかどうか考えていた? それならたいした内容ではないものね」
「なんで僕がそんなこと……」
「ヒカルって『関係ない』とか冷たく言う割りに、一所懸命な人には優しいから」
「『生意気』はよく言われたけど『優しい』は初めてだな」
「そう? ならば他の人たちの見る目がないだけよ」
自信満々にラヴィアは言う。
柔らかな笑顔で。
こんなにも親しみやすい表情をしていたっけな——と思ってしまうほど。
今朝の話が影響していることは間違いない。
「……ラヴィア、その」
「なあに?」
「僕の話を聞いてくれて、ありがとう」
「ううん。わたしこそ……話してくれてありがとう。わたし、ほんとうにうれしかったの」
彼女の温かな言葉が、温かな感情が、流れてきたような気がしてヒカルは改めて彼女に話して良かったと思った。
「歌、終わったみたい」
「ほんとうだ」
歌い終わっても拍手は起きない。
リュートを立てかけて女はカウンターに向かう。そして女将さんに茶を注文している。
「ちょっと話を聞いてくる。場合によっては——人助けをするかも」
「はい。いいと思う。ヒカルらしくて」
ラヴィアに送り出されてヒカルは歌い手へと向かった。
「お姉さん、ちょっと話を聞きたいんだけど」
「……なに、この子?」
「お姉さんはルマニアの人? 氏族についてちょっと教えて欲しいんだけど——」
ただで助ける気はないけれど、リーグのことが気になるヒカル。
ルマニアの氏族についての情報を仕入れます。





