第16章 告白(1)
闇が、迫ってくる。
逃れようと必死で走っているのに、もがけばもがくほど、足が思うように動かない。
冷たい汗が、全身から噴き出してくる。呼吸が苦しい。息が、できない――
絶望と恐怖に心を支配されながら、それでも懸命に、もがきつづけた。
無駄ダヨ、悪足掻キハオ止メ。
地を這うように低い声が耳もとで囁く。嘲弄を含んだ、悪意に満ちた揶揄。
ドウセオマエハ助カリッコナイ。考エテモ御覧。オマエノヨウニ全身ニ他人ノ返リ血ヲ浴ビタ者ニ、所詮、光ノ世界ハソグワナイ。闇ノ者ハ、晦冥ヘオ還リ。ソレガモットモオマエニ相応シイ。血ニ染マッタ両ノ手ハ、イクラ洗ッタトコロデ白クハナラヌワイエ。
ソラ、オマエニモ聴コエルダロウ。オマエニ生命ヲ奪ワレシ者ドモノ、悲痛ナ嘆キノ聲ガ。
哀レナ亡者ドモヨ。サゾ恨メシイコトダロウ。サゾ苦シイコトダロウ。オマエハ、ソレデモ自分独リ、助カルツモリカエ? アノ憐レナ魂タチカラ目ヲ逸ラシ、自分ダケガ逃ガレルツモリカエ? 自分ハ光ノ世界デ生キルコトガデキルト、本気デソウ、信ジテオイデカエ? ソノヨウナ不条理、罷リトオルト思ウテカ。
逃ゲタケレバ存分ニ逃ゲルガ良イ。ケレド、オマエハ決シテ、逃ガレルコトハデキマイヨ。
オマエノ人生ハ、深紅ノ血デ染メ上ゲラレル。
ソレガ運命。
魔王ノ愛シ子、美シキ、闇ニ染マレ――
うるさい、黙れっ!
叫ぼうとして、声が出ない。手足の自由が利かない。闇が迫る。なにかに足を掴まれ、顧みれば、腐乱し、どろどろに熔けた皮膚の隙間から歯を見せ、ニッと笑う顔がある。
オマエガ憎イ。憎クテ憎クテ、タマラナイヨオオオオオ。
足に絡みつく無数の手を、振り払おうと必死でもがく。
迫った闇は、纏わりつくそれらすらも呑みこんで、ついにはその牙を剥いた。
膨大なエネルギーの奔流が、高波のように押し寄せてくる。もはや、逃れる術はない。
観念オシ。ソレガオマエノ運命。
闇ニ染マレ、血ニ染マレ。
ソレコソガ我ガ希ミ。ソシテ、オマエ自身ノ歓ビ。
違う、そんなこと俺は望まない!
闇は、嘲笑うかのように蠕動し、ゆったりとその鎌首を擡げると、圧倒的な質量をもって覆いかぶさってきた。
愛シ子ヨ、逃ガシハシナイ。
血ニ染マレ。闇ニ染マレ。ソレガオマエノ運命。
ソレガ・オマエノ・運命―――
「―――――っ!!」
声にならぬ絶叫を発して、ルシファーは跳ね起きた。
全身を冷や汗でしとどに濡らし、荒い呼吸を繰り返す。時計は、午前3時過ぎを指していた。眠りに落ちてから、わずか半時にも満たない。
足に残る生々しい手の感触に、ルシファーは我知らず身慄いした。
咽喉が、カラカラに渇いていた。立ち上がって部屋の隅の冷蔵庫から冷えたビールを取り出すと、かすかに慄える手でプルトップを引き上げる。そのまま一気に中の液体を咽喉の奥へと流しこみ、半分以上を飲み干してようやく人心地ついた。
手の甲で無造作に口唇を拭うと、ほっと息をつく。彼はそのまま、虚脱したように壁に寄りかかり、ズルズルと床の上に座りこんだ。
自分を取り巻く暗闇と静寂が、息苦しくてたまらない。
缶を握り潰して、ルシファーは苦痛に耐えるかのように膝に顔を埋めた。その姿勢のまま、彼はいつまでも動こうとしなかった。




