第15章 もたらされた機密(2)
「畜生、やっぱあのときか!」
「大事なものなら、しっかり保管しておくんだな」
あくまで従容とした態度を崩さない《セレスト・ブルー》の覇王を、男は恨みがましい目つきで見下ろした。
「いままで捨てる機会がなかっただけのことで、べつにこんなん、大事でもなんでもねえよ。欲しけりゃ、あんたにやるさ」
男は吐き捨てるように言って、受け取った物を投げ返した。
「では、預かっておこう。もっとも、俺が持っていたところで無意味な代物だがな」
「よっくゆうぜ。カフスボタンがあんたの情報源にならなかったわけがねえ」
「少なくとも、おまえの氏素姓ははっきりしたな。だが、俺にわかったのはそれだけだ」
「そんだけわかったんなら充分だよ。で? あんたは俺を、あたまっから疑ってかかってるってわけだ」
「この程度のことで、どうこう言うつもりはない。それだったらはじめから、おまえと手を組んだりはしない」
一瞬、虚を突かれたような顔をした男は、やがて息をついて肩の力を抜いた。
「そういや、あんた、最初っからなんか気づいてるふうだったっけな。訊いてもいいか? なんでわかった?」
「おまえのその発音だ」
意外な言葉を聞いたかのように、男は瞬きをした。
「たしかに言葉遣いは品がいいとは言いかねる。話し口調も乱雑だ。一見すると、部下たちとおなじ空気に完全に溶けこんでいる。だが、連中と似た境遇の中で生きてきたにしちゃ、発音が少し綺麗すぎたな。環境に順応することはできても、人間、そう簡単に成長過程の中で自然に体得してきたものというのは捨てきれないもんだ」
「……それで『シュナウザーが嫌いか』じゃなく、『シュナウザーの属す世界が嫌いか』だったわけか」
男は嘆息まじりにぼやいてかぶりを振った。
「俺の修行がまだまだ足りねえのか、それともあんたが聡すぎるのか。どっちにしても、あんたの眼はつくづく誤魔化せねえな。うっかり隠しごともできやしねえ」
「する必要もなかろう。そのほうが互いのためだ」
言って、ルシファーは艶麗な笑みを口許に刷いた。
「そりゃ、そうには違いねえが――」
同意しかけて、男は不意に顔色を変えた。
「おい、あんたまさか、このこと、あいつに言ったんじゃ……」
「いいや、シヴァにはまだなにも話してない」
「まだ、話してねえんなら、この先もずっと沈黙しててくれるとありがてえんだがな」
「あいつに知られるのは、そんなに嫌か?」
「ああ、嫌だね。できることなら、俺自身が忘れちまいてえ過去だ。俺の人生から抹消しちまいてえ。いまの俺はただのろくでなしだ。だが、それでもあのころに比べりゃ、遙かにいまのほうがマシで、まともな生きかたをしてると自分なりに満足してる」
「ラルフ・ジェラルド・カシム・エル・ザイアッド=シルヴァースタイン。生家となる本家のみならず、一族そのものの次期頭首候補だったそうだな。それもほぼ確定済みの。あっさり捨て去るには、随分と惜しい身分なんじゃないか?」
「地位や名声。ただのレッテルに、なんの価値も見いださないあんたがそれを言うか?」
男は皮肉げに口の端を上げた。
「ラルフ・J・カシム・ザイアッド――アドルフ・シュナウザーのように、名を偽ったつもりはない。だが、親が俺につけてくれたご大層な名前は、俺には重たすぎたのさ。頭首なんて、全然ガラじゃねえだろ。ただのろくでなしのザイアッドでいい。そのほうが俺らしい。俺は、いまの俺が気に入ってる。あいつがなにも知らずにいるなら、そのままでいい」
呟くように男は言った。
「あんたがさっき言ったように、『家』のためにあいつをどうこうしようなんざ、これっぽっちも考えちゃいねえよ。俺はもう、シルヴァースタインとは無縁の人間だ」
ルシファーは静黙して男の言葉に耳を傾けていたが、ややあってから口を開いた。
「いいだろう。この件については、シヴァには黙っていることにしよう。いずれ、おまえの口から直接あいつに話をするときもあるだろう」
「ありがとうよ、恩に着るぜ」
アタッシュケースを片手にルシファーは立ち上がった。男のわきをすり抜けて、廊下へ出る。あとを追うようにして歩き出した男は、その背へ向かって声をかけた。
「あんた、思ったよりもあいつのこと、大事にしてんだな」
「その副詞句は余計だ。あいつほど有能なサブはいない。それだけに、あいつの存在は貴重だ」
「なるほどね。噂云々の件は、要らぬ心配だったか」
「あいつが俺を裏切るわけがなかろう」
振り返りもせず、ルシファーは明言した。男はわずかに歩調を静止させ、まえをゆく背を視つめた。
「それより、いつまでもタダ飯食わせとく気はないからな。そろそろ相応の働きをしてもらうぞ」
「そりゃ、働けと言われりゃなんだってやるけどよ、俺たち戦争屋に、炊事当番任されても役には立たんぜ?」
とぼけた返事を、ルシファーはあたまから無視した。
「狼たちと組んで、公安の相手をしてもらう。じきに連中も動き出すだろう」
「あ、そ、公安ね」
「ゾルフィンとの決着には、いま少し時間がかかる。軍のほうは、おまえたちに全権を委ねるつもりだ。その腕前、しかと見せてもらおうか」
並んで歩き出した男を、ルシファーは横目に見て言った。男は、挑発的なその視線をさらりと受け流した。
「はいはい、陛下、全力でご期待にお応えいたしましょう」




