第14章 深まりゆく溝(4)
「よかった、追いつけないかと思ったよ。随分早足なんだね」
男は軽く息を切らして彼女に追いつくと、親しげな笑みを浮かべて彼女のまえに立った。
ウェスリー・ガーライル。翼と同期入社した彼は、現在、社会部とおなじフロアの政治部に配属されている。入社当初から、翼がもっとも親しくつきあっていた友人のひとりだった。
「仮葬儀の際には、いろいろとお世話になって。ごめんなさい、あたしったら、それっきり、碌にお礼も言わないままご無沙汰してしまって」
「いいんだよ、そんなこと。それより、ね、少し話せないかな。って言っても、俺も仕事抜け出してきたから、そんなに時間は取れないんだけど」
「ええ、あたしならべつに」
ウェスリーはジェーンの腕を取って、建物から少し離れた街路樹の陰まで引っ張っていくと、一度、周囲に人がいないことを確認してから彼女に向きなおった。
「ジェニー、さっき社会部のまえを通りかかったときに偶然聞こえちゃったんだけど、新見が生きてるかもしれないって、あれほんと?」
「あたしはそう信じてるわ。……でも、本当はよくわからない。ただたんに、あの人の死を認めたくないだけなのかも」
「なにを弱気な。いつもの君らしくないじゃないか。モラビアに啖呵切ってた、さっきまでのあの元気はどうした」
「いやだ、そんなとこまで見てたの?」
ジェーンはプッと吹き出し、くすくすと笑いながら、不意に両手で顔を覆った。
「ジェニー……」
「ごめんなさい。でも、緊張の糸が切れちゃったの。めいっぱい気を張ってたんだけど、あなたの顔を見たら安心しちゃったみたい」
ウェスリーは、なにも言わずにジェーンの肩に手をまわした。
「みんなが言うのよ。翼のことは残念だったけど、シャロンのためにもおまえがしっかりしなきゃって。わかってるわ、そんなこと。あの子には、母親のあたししかいないんだもの。あたしがしっかりしなきゃいけないことくらい、言われなくたってちゃんとわかってる。でも、そう言われるたびに思うのよ。それじゃあ翼はどうなるのって。あの人、事故の数日前に『心配するな』って言ってよこしたわ。それは、こうなることがわかっていて、だからこそ送ってよこしたメッセージだったんじゃないの? 違うのかしら? 全部あたしの思いこみかしら? それこそ希望的観測で、都合のいいほうに意味を曲解してるだけ? でも、それだったらどうして事故のことを、だれもなにも、詳しく教えてくれないの?」
「ジェニー、ジェニー落ち着いて。これから俺の言うこと、冷静に聞けるって約束できる? 俺にもあいつが絶対に生きてるって、確信を持って言うことはできない。でも、君の言うとおりだとすれば、ひょっとしたら可能性はゼロじゃないかもしれないよ」
軽く揺さぶられて、相手の真剣な眼差しを受け止めたジェーンの瞳に、徐々に冷静さが戻ってきた。落ち着いて自分の言うことに耳を傾けられるかと再度問われ、ジェーンはしっかりと頷いた。
「大丈夫。ちゃんと話を聞くわ」
「わかった。じゃあ君を信じて話すけど、今回、新見に割り振られた企画、どうもきな臭い噂があるんだ」
「……どういうこと?」
「上層部同士の話だから、俺もはっきりしたことはわからないけど、社内で発案されたものじゃないらしいんだ。もっと上から持ちこまれた話らしい。その『上』っていうのがどこなのかっていうと、それも明確なことがわからないっていうんで、そこらへんがすでに相当怪しいんだけどさ。で、新見は最初から、その特派員に指名されてたっていうんだ。つまり、件の取材企画は、新見を地上へ呼び寄せるための大掛かりな仕掛けだったんじゃないかって話」
ジェーンの相貌は、見るまに蒼褪めた。
「ウェスリー、あたし、やっぱり頭がおかしいのかしら。自分ではすごく冷静なつもりなんだけど、あなたの言ってることがさっぱり理解できないわ。どうして、だれがなんの意図をもって、わざわざそんな真似しなきゃならないの? だって、あの人、ただの新聞記者よ? それもあなたとおなじ、9月に入社したばかりの。その彼に、いったいどんな利用価値があるっていうの?」
「わからない。だけど、事故の件にしろ、不可解なことが多すぎるのは事実だ。新見はもしかしたら、地上に行く前後で、なにかしらの事件に巻きこまれているのかもしれない」
考えこみながらそう口にしたウェスリーは、あらためてジェーンに向きなおった。
「さっき、あいつの端末から通信が入ったって言ってたね。楽観はあまりできないけど、それでもあいつが生きてるっていう望みは、あるのかもしれないよ」
ジェーンの瞳に、勁い光が宿った。
「事件って、あの人、なにかそういうことに巻きこまれそうな立場にあったのかしら? ウェスリー、あなた、なにか思いあたるような節はない?」
「さあ、俺は新見とは配属部署が違うし、このところ、総選挙とオーソン議員の収賄容疑の件でいろいろ忙しかったから――」
ウェスリーは首を捻った。そして、
「ああ、でも」
「なに?」
「いや、とっくにボツになった話だから今回の取材に関係あるとは思えないけど、あいつ、2カ月前のメイフェア生化学研究所の爆発事故の件、やたら気にしてたなと思って」
「メイフェア生化学研究所……」
「事故で、研究員だった幼馴染みが亡くなったそうだね。君も知ってたと思うけど」
「ええ、そうね」
ジェーンは、なかば上の空で頷いた。
そうだ、たしかにあの事故に、夫はいつまでもこだわっていなかったか。幼馴染みが亡くなったといって、葬儀にも夫婦で参列した。その後、翼はあの事故について単独で調査をしているのだと言っていた。そして、それからいくらもしないうちに、取材が打ち切りになってしまったのだとも――
ジェーンの中で、目まぐるしく思考が展開しはじめた。
「悪い。俺、仕事だからもう行かなきゃならないけど、ともかく君も、あまり気を落とさないで。俺でよければ、いつでも力になるから。こんな言いかた、無責任かもしれないけど、まだ絶望と決まったわけじゃない」
「ええ、そうね。そうね、ほんとに。翼はやっぱり生きてて、いずれ帰ってくるって信じることにする」
「そうだね、俺も心から幸運を祈ってる。あいつは意外と悪運が強い奴だから、案外ひょっこり戻ってくるんじゃないか、なんて俺は思ってるんだ。それに正直、上司や仕事の愚痴を聞いてくれる奴がいないと、日常がそれはそれはストレスフルでね。もうパンク寸前。新見は俺にとって、最高の緩和剤かつ安定剤なんだ。生きててくれなきゃ俺も困る」
そう言って、ウェスリーは片目を閉じた。
「じゃあ、もう行くから……っと、そうだ。いまの話、公になるとまずいんで、ここだけの話にしておいてもらえると助かるんだけど」
「もちろんよ、ウェスリー。もちろん、だれにも言わないわ。あたしだけの胸にしまっておく。必ずそうするわ。ウェスリー、ほんとにどうもありがとう。すごく、最高に勇気づけられたわ」
ジェーンの言葉に、にっこり笑って軽く手を挙げ、ウェスリー・ガーライルは建物の中へと戻っていった。ジェーンは笑顔で手を振って彼の背中を見送り、その姿が見えなくなるや、表情を一転させた。
ゆっくりとした足取りで、彼女は歩き出す。
立ち去る直前、新見ジェーンは口を真一文字に引き結び、勁い眼差しで近代的なデザインの高層ビルをぐっと見上げた。
澄んだグリーン・アイに、悲壮な決意が浮かんでいた。




