第8章 軍の侵入(3)
その数日後、深夜から明け方にかけて、スラムの内部に不審な集団が侵入を果たした。十数人を一団として四方に散ったその数、およそ30前後。情報は、ただちに司令部のルシファーの許へもたらされた。
「間抜けな飼い狗どもが、馬鹿面さげて乗りこんできたか。ならば、身の程知らずを存分に後悔させてやる。せいぜい上層部の認識の甘さを恨むがいい」
凄惨な光をその双眸に宿して、美しき魔王は呟いた。
「ビッグ・サム、手筈は整ってるな?」
「遺漏はない。すべて当初の予定どおりに」
「よし、奴らが散った場所は港湾北第6ブロックA、Gポイントとそれに隣接する港湾南第6、第7ブロック内ミッドタウン北東C及びFポイント。おなじく、ミッドタウン北西のDポイント。この5つの区域だ。それぞれのブロックでさらにいくつかのグループに分散して待機してる。実戦部隊の各リーダーに伝えろ。手加減はするな、徹底的に叩き潰せ。《ルシファー》が、浴びるほどの血杯を欲しているとな。総指揮はデリンジャーが執る。奴の指示を仰げ」
行けとの合図を受け、頭をひと振りすると、たくましい長身は司令部であるボスの私室から姿を消した。
コンピュータのモニター・スクリーンが映し出す各ブロックの市街図上に、複数の赤い光が点滅する。ピアノ奏者のような手つきでいくつかのキーが叩かれると、そこに緑の光が加わり、ほどなくそれは、赤い光と遭遇していった。
戦闘開始。
戦端が開かれるや先陣を切るのは、《シリウス》、《没法子》、《自由放任》、《黒い羊》(厄介者の意)、《夜叉》及び各グループをそれぞれ司令塔とする直属配下。
錚々たる顔ぶれが指揮にあたる初戦では、大捷を博すことはまず必定。ただし、あくまでそれは、たんなる前哨戦にすぎなかった。本番となるのは、そこから先――
――はやく、出て来い。
鋭い視線で画面を睨みつけるルシファーのまえに、馥郁たる香りを放つ黒い液体の入ったカップが置かれた。白い指先が取っ手から離れる瞬間、その華奢な手首を、彼は乱暴に掴み上げた。
「……っ!」
「おまえがいまからそんなんでどうする」
低く押し殺した声が、薄い口唇の隙間から漏れた。熾烈な耀きを放つ青紫の瞳が刺し貫いたその先に、砕け散りそうなほど頼りなげな、玲瓏たる美貌があった。
いつものすべてを撥ねつける、近寄りがたい冷ややかさはそこにない。かわって、触れればたちまち消えてしまいそうな儚さが全身を包んでいた。
「いいかげん目を逸らさず、現実と向き合う覚悟を決めろっ。でなきゃ俺はおまえを、早々に切り捨てるからな、シヴァ」
ギリギリときつく締め上げていた手首を、ルシファーは掴んだとき同様乱暴に放した。
赤く、くっきりと指の跡のついた手首を、シヴァはもう一方の手で包んだ。不安に揺らいだプルシャン・ブルーの瞳が、苦しげに伏せられる。
「つらいのは、おまえひとりじゃねえ。ビッグ・サムがどんな想いで今回の戦いに臨んでると思う? 少しはあいつの心中も察してやれ」
青年はなにかを言おうとして口を開きかけ、結局、言葉にすることができずに俯いた。
張りつめた、冷たい沈黙が流れる。
数瞬の間を縫って、隣室へとつづくドアから控えめなノックが響いた。部屋の主の返答を待って、やはり控えめにドアが開く。顔を覗かせたのは、その続き間を私室としてあてがわれている翼であった。
場の気まずい雰囲気を一瞬で感じとった青年は、戸惑いを浮かべて入室を躊躇した。
「悪い、起こしたか?」
「あ、ううん。そんなんじゃないけど……」
ガラリと態度を変えて、穏やかな口調で言ったルシファーに、翼は曖昧な微笑を浮かべて首を振った。
「あの……、ごめんね。邪魔だった?」
「いや、大丈夫だ。なにか用か? そんなところに突っ立ってないで、入って来い」
促されて、翼はおずおずと部屋に足を踏み入れた。その途端、シヴァは耐えかねたように身を翻し、もう一方のドアから出ていってしまった。
「なん、か……、まずいところに来ちゃったみたいだね。ごめん。大事な話してた?」
「いや、そんなことはない。どうした? なにかあったか?」
「あ、ううん。こっちはべつになにも。ただ、なんかちょっと、周りの雰囲気がいつもより慌ただしい感じがして、それで少し気になって……。君たちのほうこそ、なにかあった?」
「ああ、べつにたいしたことはない。武器を持ったネズミが、百単位でスラムに潜りこんだだけだ」
煙草に火を点けながら、何気なく告げられた真実。
うっかり軽い気持ちで受け流そうとして事の重大さに気づき、翼は相手の顔を見直した。
「たいしたことないって、ルシファー……」
「ああ、ネズミどもを排除する程度のことなら、別段たいしたことはない。いま、デルに総指揮を執らせて、一斉駆除にかからせてるところだ。こっちも多少の犠牲は出るだろうが、敵が殲滅するのは時間の問題だ」
ゆっくりと紫煙を吐き出しながら、ルシファーはこともなげに言った。
「でも、相手はプロなんでしょう?」
「たしかに奴らはプロの戦争屋だ。だが所詮、平和ボケした世界で戦争ごっこに現を抜かす、英雄もしくは悪役気取りの自己陶酔集団にすぎない。戦略、戦術に関する知識と、組織としての統制はそこそことれちゃいるだろうが、実戦では到底、俺たちの敵じゃねえな。向こうに言わせりゃ、俺たちは素人の、たかがクソガキどもの集まりだろう。だが、場数は断然、俺たちのほうが踏んでる。そしてスラムは、俺たちの庭だ」
虚勢を張っているのでは決してない。己の能力を過信しているのでもない。実力と経験に裏付けされた、たしかな自信がそこにあった。
圧倒的なエネルギーの奔流。
こんなとき、彼は他のなにものをも凌駕して、見事な耀きを放つ。
彼を崇拝する少年たちを惹きつけ、有無を言わせず足下に拝跪させる強烈な覇気。そして翼の魂を魅了してやまぬ、彼の生命そのものが鮮やかに表出した、もっとも崇高で美しい光輝。
目を奪われ、言葉失く立ち尽くす翼に、覇王は艶麗な微笑を投げかけた。
「心配しなくてもいい。いまはまだ、大丈夫だ」
――現実に引き戻されるのは、一瞬で充分だった。
心配しなくてもいい。
いつも、繰り返される言葉。
翼が不安をおぼえるとき、そしてなにかを気にかけるとき、彼は必ず、翼を安心させるように言う。おまえは気にするな、心配しなくとも大丈夫だ、と。
たしかにそのとおりなのだろう。仮に、それが言葉どおりのものでなかったとしても、それで翼になにかができるというわけでもないのだ。
部外者であり、戦力にすらならぬ身では、なにかしたいと思ったところで、役に立てることなどなにもない。そんなことは充分承知していた。しかしその一方で、だが、と翼は思うのだ。
落ち着いた言動、老成したものの考えかた、常人とは一線を画した統率力、威厳、判断力。頭の回転がすばらしく速く、情報分析能力にも長け、なにより、ここぞというポイントを的確に突く。見識の豊かさ、知識の広範さもまた驚くほどで、修士課程まで修得し、職業柄、つねに多岐の分野にわたってアンテナを張り巡らせ、さまざまな情報を入手しやすい環境にある翼ですら、その博識には遠く及びもつかなかった。
スラムに移り、彼と過ごすようになって、まだほんの数日。だが、ルシファーという人間を知れば知るほど、ただただ、その奇蹟のような存在に圧倒されるばかりだった。
だからこそ通常、翼はつい忘れてしまいがちになる。この、世情に通じた、天賦の才を恣にする特異な人物が、自分より5歳も年少で、まだ成人にも達していない少年なのだということを。
『少年』。
なんと彼に不似合いな言葉だろう。そう呼ぶには、彼はあまりにも怜悧で、完璧すぎた。いっそ、胸が苦しくなるほどに。
彼がなにを抱えているのかはわからない。だが、その年齢で背負うには、彼はあまりに多く、重すぎるものを課せられている気がした。
「……うん」
どことなく消沈した様子で頷く翼の反応を、不安ゆえと解釈したのだろう。ルシファーは、翼の気分をまぎらせるように語調を変え、話題を転じた。
「そういや、ジャスパーに読み書きを教えてるそうだな」
「え? あ、うん。あと、簡単な算数なんかもね。まだ、はじめたばかりだけど」
「調子はどうだ?」
「悪くないよ。てゆうか、ジャスパーがすごく頑張ってる。学びたいっていう意欲が強いから、教えたことも綿が水を吸いこむみたいにどんどん吸収してくんだ。反応もすごくいい。とても頭のいい子だね」
「ああ。だがそれだけに、あいつは人一倍、劣等感も強い」
「うん、わかる。でも、それがかえってバネになってるところがあるかな。毎日楽しそうに勉強してて、教えるほうも張り合いがあるよ」
「そうか。面倒かもしれないが、しばらくつきあってやってくれ」
「面倒だなんてとんでもない。僕でよければ喜んで」
翼の言葉を聞いて、ルシファーは付け加えた。
「ビッグ・サムからも、おまえによろしく伝えてほしいとのことだった」
ジャスパーの保護者として、彼はルシファーにそう言伝したのだろう。おなじ場所で寝泊まりしながら、彼と翼とでは、殆どといっていいほど接点がなかった。
セレストに滞在するようになって以降、ビッグ・サムは司令部であるルシファーの私室に詰めていることが多かった。そのような場合、たとえボスの賓客という待遇であっても、翼が続き部屋の扉を叩くことはなかった。そして、いざ別の場所で顔を合わせてみれば、彼は片時も離れることなく、銀糸の髪の美しい主人に付き従っていた。
そんな折り、すれ違いざまに目が合った翼に対し、向こうから目礼を送ってきたことがあった。つい数日前のことである。彼なりの謝意がこめられていたのだろう。考えてみれば、勉強を教えてもらうならと、あえて少年に翼を薦したのは、ビッグ・サムのほうだったのだ。
「翼、少しでも休められるときに躰を休めておけ。今後は、状況次第でそうもいかなくなってくる」
「あ、うん」
かけられた言葉で、翼は現実に引き戻された。蒼穹色の眼差しは平静に凪いでいるが、彼の支持のもと、戦闘はすでに開始しているのだ。
「わかった、そうする」
翼はすぐさま頷いた。
「遅くにごめん。ルシファー、君もあまり無理しないで」
そう言い置いて、青年は促されるまま素直に自室へと引き返そうとした。その背中に、ふたたび声が飛んできた。
「翼」
呼ばれて振り返ると、意外にも、なにやら悪戯を企むような笑顔とぶつかった。
「俺と、賭けをしないか?」
ルシファーはそのまま調子を崩さず、ニヤリとして言った。
「賭け? いいけど、なにを?」
「デルの奴が、戻ってきて開口一番になんて言うか、さ」
「デリンジャーが?」
一瞬キョトンとした青年は、すぐにその意図に気がついた。セレスト内に漂う不穏な気配に対する翼の不安を、彼は冗談でまぎらせようとしてくれていた。
「ええと、それじゃあね……」
考えながら、翼は視線をナイトテーブルの時計の上に走らせた。
暁暗。ドーム内にあっては殆ど意味のないことではあるが、それでも人為的な明かりの調整によって、人工の夜と朝が入れ替わるころ。
翼は、話題にのぼった当人の顔を思い浮かべながら思いついた答えを口にする。そして、まったく同時に、その答えを待たずして、賭けの提案者であるルシファー自身も口を開いた。
示し合わせたように、ぴたりと呼吸のあったセリフの出。
「もうっ、徹夜って美容に悪いのよ!」
――賭けは、成立しなかった。




