62.金眼の獣人
「それは、大変だったわね」
「本当ですよ! もう潰れた物は売り物になりません。だから弁償するように言ってるのに、この獣人は謝るだけで、まったく話になりません」
私はニヤニヤと笑う店主の前を通り過ぎ、その獣人の青年の前に立った。
彼は私の影に気づいたのか、びくりと身体を震わせる。
その姿が、記憶の中の──イザベルや、彼女に忠実な侍女たちに脅えるジルティアーナの姿と重なった。
ジルティアーナも、いつもイザベルたちを前に身体を強ばらせていた。
特にリズがいない時は、どんな嫌味を、どんな傷つく言葉を投げられるのかと怯え、震えていた。
──おそらく、この青年も。
日常的に、ジルティアーナが受けていたような──あるいは、それ以上の理不尽な扱いを受けてきたのだろう。
うつむいた彼の顔を、正面から覗き込む。
視線が下がっているせいで瞳の色は分からない。
けれど、髪と同じグレーの尖った犬耳に、ふさふさのしっぽ。
本来なら柔らかそうなそのしっぽは、潰れた果実にまみれ、赤や茶色に汚れていた。
さらに、先ほどの男が投げつけたキーウが頭で潰れ、小さな種とともに赤い果汁が顔を伝っている。
隷属の魔法陣が刻まれた頬は殴られて赤く腫れ、むき出しの手や腕には、今ついたばかりの擦り傷だけでなく、古傷や火傷のような痕跡まで──まるで傷の地図のようだった。
私はそっと腰をかがめ、手を伸ばす。
彼は、叩かれるとでも思ったのか、思わず身体を縮こませた。
「……だいじょうぶ?」
私はそっと声をかけ、ハンカチを取り出して彼の汚れた顔を拭こうとする。
長いまつげが揺れ、ゆっくりと瞳が開かれた。
煌めく金色──まるで満月のように澄んだ、吸い込まれそうな金の瞳。
オブシディアンやネージュの瞳を初めて見たときと同じ、神秘的な感覚に思わず息を呑んだ。
「だ、だめです。
ハンカチが、汚れてしまいます!」
私が手を伸ばしたことに気づき、彼は慌てて自分の手で制止しようとする。
けれど、手が果汁や泥で汚れていることに気づいたのか、そっと手を引っ込めた。
私は構わず、頭から滴る果汁を拭う。
「動かないで。少し目を閉じててくれる?
果汁が目に入りそうだから」
「え? あ、はい……」
怯えているのか、彼の耳が下がっている気がした。
それでも、戸惑いながらも私の言葉に従ってくれた。
汚れを丁寧に拭いながら、私は優しく声をかける。
「もう、大丈夫よ」
「ありがとうございます……あっ! 申し訳ございません!!」
何かに気づいた彼が、先ほどよりもさらに怯えたように謝ってくる。
その視線の先を追うと──そこには、キーウの果汁によって赤く染みた、私の袖があった。
おそらく、彼を拭いたときについてしまったのだろう。
私は袖を確認し、立ち上がった。
そのまま、横で呆然と私たちを見ていた店主へと目を向ける。
「あら、服が汚れてしまったわ。
ねぇ、元に戻してくれるわよね? でも果実のシミじゃ、取れそうもないから──弁償してちょうだい」
「……は? なにを……?」
「この服のことに決まってるでしょ?
だって、あなたの店の商品で汚れてしまったのよ。当然、弁償してくださるわよね?」
「な、なんで俺……いや、私が……」
「一方的に殴られたことで商品を潰した彼を責めておきながら、
店の商品で私の服が汚れたことには責任を持たないつもり?」
私がジロリと睨むと、店主はたじろぎながら必死に言い返す。
「で、でも! 商品を潰したのはそこの獣人で……!
そうだ、貴女様の服だって、弁償すべきはそいつじゃ……!」
「なら、あなたの店の商品も、彼じゃなくて──彼を殴った男たちに弁償させるべきじゃない?」
「……っ」
まるで何か閃いたかのように笑った店主に、私は涼しい笑顔で言い返す。
「ちなみにこのお洋服、フェラール商会で仕立てたものなの。
私、この服がとても気に入ってるの。
オーダーすれば同じものを作ってくれるはずだから──よろしくね?」
「フェ、フェラール商会!?」
さすがはフェラール商会。
直接利用したことがない平民でも、その名が高級商会だということは知っているらしい。
そんな店でオーダーすれば、いったいどれほどの額になるか……
店主の顔が見る見る青ざめていく。
「い、いや……でも……私のような……富豪でもない平民では……フェラール商会に入店する事もかないませんし、そんな染みくらいで……」
「おや! お嬢様ではありませんか」
小声での言い訳を遮るように、店先に新たな声が響いた。




