345.宿代よりも、ごちそうを
翌朝。
空は晴天。澄んだ空気が街を満たしていた。
私はミランダお姉様、それからフレイヤ様と共に、約束の時間に合わせて街一番の宿──オーベルジュへ向かった。
石造りの建物は手入れが行き届いており、朝の光を受けてやわらかく輝いている。
さすがは、要人が滞在することも多い宿だ。
入口に近づくと、聞き覚えのある弾んだ声が響いてきた。
「いや、もう本当に!
朝からあんなの食べられるなんて、反則っすよ!」
振り返るまでもなく、誰の声かはわかる。
「テリル、少し落ち着きなさい」
呆れたようなエステルさんの声が続くが、その声音に険しさはない。
「落ち着けって言われても無理っすよ!
焼きたてのパンに、香草入りのオムレツ!
それに魚介のスープ!! 絶対、手間かかってますって!」
「……聞いているこちらが恥ずかしくなる。もう少し声を抑えろ」
そう言いながらも、ヴェルドさんの表情はどこか満足げだった。
その輪の中心にいたシルヴィア様が、こちらに気づいてにこやかに微笑む。
それに気づいたミランダお姉様が、一歩前に出た。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「ええ、おかげさまで」
シルヴィア様はそう答え、ほっとしたように頷いた。
「このお宿、とても評判が良いと聞いていたのですが……
噂以上でしたわ」
その言葉に、テリルさんが勢いよく頷く。
「間違いないっす!
オーベルジュって聞いて、期待はしてましたけど……
それを遥かに越えてきたっす!」
「まあ、確かに朝食は美味かったな」
ヴェルドさんはそう言って、口元をわずかに緩める。
エステルさんも、手を口元に添えて微笑んだ。
「本当に、美味しかったですわね。
朝食で、あれほど満足感を覚えたのは久しぶりです」
その様子を見て、私は胸の奥で小さく息をついた。
「皆さん、楽しめたようで何よりですわ」
同じく安堵したように、ミランダお姉様が笑う。その表情は、昨日よりもずっと柔らかかった。
「それにしても、さすがはクリスディアのお宿ですね。
街のオーベルジュまで、こんなに美味しい食事が出るなんて」
フレイヤ様が感心したように頷くと、自然と皆の視線が集まる。
「てっきりフレイヤ様も、この宿に泊まるのかと思ってたんすけど……」
「フレイヤ嬢は、どこに泊まったんだ?」
代表するように、テリルさんとヴェルドさんから質問が飛んだ。
一瞬だけ、フレイヤ様は言葉を選ぶように視線を伏せる。
それから、穏やかな微笑みを浮かべて口を開いた。
「実は……ヴィリスアーズ邸にお世話になりました」
その一言に、場の空気がわずかに揺れる。
「えっ、ヴィリスアーズ邸っすか?」
テリルさんが目を丸くし、確認するように私とミランダお姉様を見た。
お姉様は小さく息を吐く。
「私も、てっきりオーベルジュに泊まると思っていたわ。
なのにフレイヤったら、平民向けの……それも安宿に泊まろうとしていたのよ」
皆さんがぎょっとしたように、フレイヤ様を見つめる。
フレイヤ様は気まずそうに視線を逸らしつつ、反論した。
「……だって、ヴィオレッタ様がいらっしゃらず、私ひとりですもん。
高い宿代が、もったいなく思えて……」
「だからって、貴女が取っていたのは風呂なし・トイレ共同のところよ?
女性ひとりが泊まる場所じゃありません!」
お姉様に強く言われ、フレイヤ様は小さく肩をすくめる。
「だ、だって……
高い宿代を払うなら、おにぎり屋の“ごちそうセット”を食べたかったんですもん」
――あ、まずい……
「『食べたかったんですもん』じゃありませんっ!!」
予想通り、お姉様の雷が落ちた。
その声に、フレイヤ様はぴしっと背筋を伸ばす。
「……すみません。反省しております」
あまりに素直な態度に、先ほどまでの緊張が嘘のように、場の空気が少し和らいだ。
「おにぎり屋の……ごちそうセット?」
ぽつりと呟いたのは、シルヴィア様だった。
興味を引かれたように、小首を傾げている。
「それは、どういったものなのですか?」
「ごちそうセット!?
それ、普通のおにぎりと何が違うんすか!?」
テリルさんが即座に食いつく。
「具が……とにかく豪華なんです。
それに、目玉は唐揚げで……!」
フレイヤ様は、少しだけ胸を張って答えた。
「日替わりむすびや焼きおにぎりに加えて、
唐揚げのほかにも煮込みや卵料理、それに季節の副菜まで付いて……」
「ちょっと待て」
ヴェルドさんが低く遮る。
「それは……贅沢すぎないか?」
「はい!
そこらの貴族の食事よりも、よほど満足感があります。
まさに“ごちそう”です!」
即答だった。
エステルさんが、思わずくすりと笑う。
「それは……確かに、宿代と天秤にかけたくなる気持ちもわかりますわね」
「エステルさん!?」
ミランダお姉様が咎めるように声を上げるが、
エステルさんはにこやかに首を振った。
「もちろん、安全第一なのは大前提ですけれど」
「……そうです」
お姉様は咳払いを一つして、気持ちを切り替えたようだった。
「とにかく、結果的にはヴィリスアーズ邸に泊まってもらえて良かったわ。
今後は必ず、事前に相談すること。いいわね?」
「はい、肝に銘じます」
フレイヤ様は、今度こそ深く頷いた。




