344.踏み込まない選択
その後、場がすっかり落ち着いてから、私とミランダお姉様は屋敷へ戻る馬車に揺られていた。
先ほどまでの張りつめた空気が嘘のように、車内は静かだった。
車輪の音だけが、規則正しく耳に届く。
「お姉様」
声をかけると、窓の外を眺めていたミランダお姉様が、ゆっくりとこちらを振り返った。
「シルヴィア様に……オークをマジックバッグで飼育していることを、お伝えしなくて良かったのですか?」
探るような言い方になったかもしれない。
ミランダお姉様は一瞬、意外そうに目を瞬かせ、それから小さく微笑んだ。
「……気づいていたのね」
否定はされなかった。
「正直に言えば、個人的には教えて差し上げたい気持ちもあったわ。
シルヴィア様の友人として、ね」
その言葉に、私は小さく頷く。
シルヴィア様の立場を思えば、オーク肉を安定して用意できることは、大きな助けになる。
王都で毎年繰り返されてきた苦労も、きっと軽くなるだろう。
それでも──
お姉様は、あの場で多くを語らなかった。
だから私も、口を挟まなかった。
ミランダお姉様は再び視線を窓の外へ戻し、静かに言葉を続ける。
「オークの飼育方法を考えて、実際に形にしたのは、あなたでしょう?
それを、私の判断だけで軽々しく口にするわけにはいかないと思ったの」
思わず、息が漏れた。
──やはり、そうだった。
「そんなこと、気になさらなくて良かったのに」
私は首を横に振り、はっきりと言う。
「お姉様の大切なご友人であるなら、私にとっても、シルヴィア様は大切な方です」
きっぱりと告げると、ミランダお姉様が少し驚いたように目を見開いた。
それから、ふわりと柔らかな笑みを浮かべる。
「ありがとう、ティアナ」
馬車が、小さく揺れた。
そして、お姉様はぽつりと、改めて口を開いた。
「以前、ヴィオレッタ様がいらしたときに、少し話したと思うけれど……
シルヴィア様のお立場は、決して単純なものではないの」
その一言で、胸の奥が静かにざわめいた。
──そうだ。
以前、ミランダお姉様とヴィオレッタ様、フレイヤ様が話してくれた。
獣の尻尾を持つ王子殿下と、耳を持った王女様のこと。
人間族と獣人族。
そのあいだに横たわる溝と、王家という立場。
その狭間で生きるシルヴィア様が、
なぜあれほど周囲に気を配り、誰かの立場を踏み越えないよう、言葉を選んでいたのか。
今なら、わかる気がする。
ミランダお姉様は、しばらく沈黙してから、低く言った。
「クリスディア領主からシルヴィア様へ、貴重なオーク肉を提供するとなれば……
我がクリスディア領は、シルヴィア様の同母のお兄様である第四王子側に付いた。
──そう、見なされるわ」
第四王子側に付いた。
ただそれだけで、善意も配慮も、すべて“立場”に塗り替えられてしまう。
私は、無意識のうちに指先を握りしめていた。
「……だから、ですか」
自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
「シルヴィア様は、あの場でそれ以上を求めなかったんですね」
オーク肉のことも。
飼育方法のことも。
踏み込めば、どんな意味を持つのか──すぐに理解できたはずだ。
そして。
「お姉様は……私や、クリスディアのことを第一に考えてくださったのですね」
ミランダお姉様は、小さく息を吐いてから頷いた。
「残念ながら……シルヴィア様とアルベルト様の立場は、決して強くはないの。
下手に“第四王子に付いた”と思われてしまえば……」
一瞬、言葉を選ぶ間があってから、続ける。
「アルベルト様たちをよく思っていない第二王子派閥から、
私たちまで狙われかねないの」
第二王子派閥──。
今、この国で最も力を持つと言われているのは、王妃を生母とする第二王子だ。
王位に最も近い存在と噂される、その名を聞くだけで、胸の奥がわずかに重くなる。
王都の政治に詳しいわけではない私でも、
その派閥がどれほどの影響力を持っているかくらいは、理解していた。
「……なるほど」
短く息を吐いて、私は頷いた。
「だからこそ、あの場では何も言わなかったんですね。
シルヴィア様のためにも、クリスディアのためにも」
「ええ」
ミランダお姉様は、淡々と答えた。
「善意だけで動けば、守れるものまで危険にさらしてしまうことがある。
特に、私たちの立場ではね」
それは、領地を守る立場の者としての判断であり、
同時に――私の姉としての選択だった。
私は膝の上で、ゆっくりと手を重ねる。
頭では理解している。
感情だけで突き進んではいけないことも、
軽率な一歩が、誰かを傷つけてしまうことも。
それでも──。
「……シルヴィア様も」
口にしかけて、言葉を選ぶ。
「きっと、すべてをわかったうえで、何も言わなかったんですよね」
求めれば得られたかもしれない。
けれど、その代償がどこへ及ぶのかも、理解していたのだろう。
ミランダお姉様は、少しだけ目を細めた。
「ええ。そう思うわ。
あの方たちは、いつもご自身のことよりも、周りの者のことを考えてくださるから……」




