343.企業秘密の境界線
「それにしても、残念ですわね。クリスディアは王都から遠すぎます。せめて、馬車で二、三日の距離であれば……」
エステルさんは頬に手を添え、ため息混じりにそう呟いた。
その言葉に、ヴェルドさんとテリルさんが揃って深く頷く。
「本当っすよ! クリスディアがもっと近けりゃ、おにぎり屋に通えるのに〜」
「だな。こんな美味い肉を、いつでも食えるなんて……羨ましいにもほどがある」
二人の言葉を聞き、エステルさんは先ほどよりも、さらに深く息を吐き出した。
「それよりも、です。
毎年、国王陛下の誕生祭用のオークの捕獲に、どれほど苦労してきたことか……」
その言葉に、二人は「あっ」と声を上げ、はっとした表情を浮かべる。
それを見たシルヴィア様が、くすりと微笑んだ。
「ええ。まさか、飼育するという発想に至るとは……考えたこともありませんでしたわ」
明るい笑顔を浮かべるシルヴィア様に、部屋の空気がふっと和らいだ。
できることなら、その際にオークを提供してあげたいところだが、王都まで輸送するとなると、どうしてもコストがかかりすぎる。現実的とは言えないだろう。
──というのは、あくまで一般的な話で。
(マジックバッグの中で飼育している、うちのやり方なら……)
王都がどれだけ遠かろうと、実のところ大した問題ではない。
鮮度も管理できるし、輸送の手間も、ほとんど気にする必要はない。
けれど──。
「あの……そのオークの飼育方法って、どうやってるんすか?」
テリルさんが、恐る恐るといった様子で口を開いた。
「テリル!」
すぐさまヴェルドさんが制止するように声を上げる。
けれど、テリルさんは引かなかった。
「だって……! 気になるじゃないっすか。
あんな危険なオークを、どうやって大人しく飼ってるのか」
一斉に集まる視線。
(……あ)
私は、内心で小さく息を呑んだ。
「そ、それは……」
言葉を探している間に、シルヴィア様が興味深そうに首を傾げた。
「本当に、不思議ですわね。
王都でも、囲いの強化や人員の確保に、常に頭を悩ませていますもの。──でも」
シルヴィア様の目に、鋭い光が走る。
けれど、その視線が向けられたのは、私ではなかった。
「それ以上を追求するのはお止めなさい。
先ほどミランダから、“企業秘密”だと聞かされたばかりでしょう?」
「ですが! シルヴィア様が、入手困難なオーク肉を献上できれば……!」
テリルさんはなおも食い下がろうとしたが、シルヴィア様は厳しい表情のまま、静かに首を横に振った。
「そんなことは、ミランダとジルティアーナ様には関係のないことです。
それを強いる権利など、ありません」
テリルさんは唇を噛みしめるようにして、視線を落とした。
「……わかりました」
そう言いはするものの、納得しきれていないのは明らかだ。
それでもシルヴィア様の言葉を無視するほど、無分別ではない。
私のほうを、ちらりと見る。
「……余計なことを聞いて、すみませんでした」
その目に浮かんでいたのは、悔しさと、ほんの少しの名残惜しさだった。
「いえ……」
私は首を横に振り、できるだけ穏やかに答える。
何か声をかけてあげたかったが、それ以上は踏み込まず、言葉を切った。
その様子を見ていたヴェルドさんが、ふうっと息をつく。
「まったく……。思ったことをすぐ口に出すのは、相変わらずだな」
「す、すみません……」
「謝る相手が違う」
ヴェルドさんの言葉に、テリルさんは慌てて背筋を伸ばした。
「シルヴィア様、出過ぎた真似をしました」
深く頭を下げる姿に、ようやく場の緊張がほどける。
「顔を上げなさい」
シルヴィア様はそう言ってから、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。テリルが、私のことを思ってそう言ってくれたことは、嬉しく思いますよ」
テリルさんは一瞬きょとんとした顔をしたあと、顔をくしゃりと歪めた。
「……っ、シルヴィア様……」
「ですが、それを他の者に強いてはいけません。
相手の立場を尊重すること。それを忘れてしまえば──あの方たちと同じですよ」
「……はい」
テリルさんは、素直に頷いた。
その様子を見て、私は胸の奥で、そっと息をついた。




