330.あの日のオークスープをもう一度
「国王陛下の……誕生祭で?」
思わず聞き返したのは、ネロくんだった。
自分の声が室内に響いたことに気づいたのか、彼ははっとして口元を押さえる。
けれどシルヴィア様は気に留める様子もなく、ただやわらかく微笑まれた。
「ええ。父は昔からオークの肉が好きなのです。
ですが私はどうも苦手で……脂っぽくて固くて、これまで一度も美味しいと思ったことがありませんでした。
なのにまさか、こんなに美味しい“豚汁”がオーク肉だなんて。本当に驚きました」
そう言って椀を持ち上げ、シルヴィア様は静かに豚汁を口に運ぶ。
「ほう……」と感嘆の息が、湯気へほどけていった。
「味もさることながら……それ以上に驚いたのは、このような平民の食事処で、貴重なオーク肉をいただけることですわ」
「ええ。それに──さきほど、この豚汁は“おまけ”だと仰っていましたよね?」
エステルさんとヴァルドさんが目を大きく見開く。
だが、私の耳には別の言葉のほうが強く引っかかっていた。
「オーク肉が、貴重……?」
思わず首を傾げてしまう。
◇
オーク肉を初めて食べた日のことは、忘れようにも忘れられない。
レーヴェとステラに出会い、ウィルソールの街で初めて一緒に食事をした、あの日──。
食いしん坊のオブシディアンが宿の食事に不満を抱き、オリバーさんの店へひとっ飛びした拍子に、
偶然見つけて獲ってきてくれた“オーク”。
あの、空飛ぶ豚のような不思議な生き物だ。
“オーク”と聞いて私が真っ先に思い浮かべたのは、RPGやアニメに出てくる二足歩行のモンスター。
イノシシ顔に鎧、棍棒を振りかざす、あのいかつい姿。
でも、実際はまったく違った。
私の想像した恐ろしい怪物とは真逆で、まるで絵本から飛び出したような可愛らしい豚。
空をふわりふわりと飛ぶ、ピンク色の丸い豚。
まん丸の体につぶらな瞳。
ぴくぴくと動く大きな鼻。
四本の短い足がちょこん。
完全に、“丸い空飛ぶブタさん”だった。
そんなオークをよく食べるようになったきっかけも──自然と思い出してしまった。
クリスディアに来て、しばらくたったある日のこと。
屋敷の自室で側近たちとのんびり過ごしていた私は、ふと気づいた。
レーヴェたちと初めて会ったあの日以来、オーク肉は一度も食卓に並んでいない。
「また、あのオークのお肉……食べたいな」
ぽつりと漏れたその一言は、まるで別の誰か──食いしん坊なあの人(?)の言葉のようで、少し気恥ずかしかった。
そんな私を見て、レーヴェが穏やかな笑みを浮かべる。
「そうですね。ティアナ様と出会ってから、今まで見たこともない美味しいものをいろいろいただきました。
……ですが、やはり最初に食べたオーク肉の味は忘れられません」
「……そうですね」
ステラも小さく頷き、目の前のティーカップを両手でそっと包む。
何かを懐かしむように目を細めたあと、ゆっくり顔を上げた。
「あのオークスープ……あの時は気づきませんでしたけれど、スープ皿ではなく、こういう取っ手つきの丸い器に入っていました。
あれは、カトラリーに慣れていない私たちを気遣ってくださったのですよね?」
にこりと笑むステラ。
私が言葉を失っていると、彼女は静かに続けた。
「ティアナ様は……あの時から、ずっと私たちのことを考えてくださっていたのですね」
「それは……」
そんな大げさなものじゃない。
ただ、初めて出会った二人が少しでも食べやすいようにと思っただけで……。
けれどステラは、私の否定をそっと遮るように微笑んだ。
「嬉しかったんです。
右も左もわからず緊張ばかりしていた私たちが、あの温かいスープを手にした瞬間……ふっと肩の力が抜けたんです。
“ああ、私はここに居ていいんだ”って、そう感じられました」
「……ステラ……」
胸の奥がじん、と熱くなる。
そんなふうに思ってくれていたなんて、知らなかった。
レーヴェも遠い記憶をたどるように目を細める。
「あのオークスープ……今でも香りを思い出せます。
素朴で、けれど滋味深くて……初めて『美味しい』と心から思えた料理でした」
そんなふうに言われたら……ますますオークのお肉が恋しくなる。
まさにその時、その気持ちをさらに強く抱いていた者(?)が、会話に割り込んできた。
「オークのお肉! ネージュも食べてみたい!!」
私の膝で寝ていると思っていたネージュが、いつの間にか目を覚まし、きらきらした青い瞳で見上げていた。
そして──
「じゃ、ちょっと行ってくるね~」
「えっ!? ネージュ……っ!」
待ちなさい! と続けたかったのに、止める間もなく。
もうその姿は窓の向こう、空の彼方へ。
あっという間に見えなくなってしまった。




