321.香らぬ小瓶
「思い出の……香り、ですか?」
ネロくんが静かに問い返すと、女性はフードの奥でわずかにうなずいた。
その仕草は控えめなのに、どこか切実さを帯びている。
室内の空気が、ふっと変わった気がした。
まるで、見えない風がひとすじ通り抜けたように。
「はい。──とても昔のことです。
けれど、あの香りだけは、どうしても忘れられないらしくて」
彼女の声は澄んでいるのに、どこか遠くを見ていた。
記憶の底から、何かを呼び戻すような響き。
私は思わずネロくんと視線を交わす。
香りの記憶。
それは人によって、心の奥に眠る“扉”のようなものだ。
私たちリュミエール商会の仕事は、その扉を見つけ、そっと開くこと。
「その香りについて、もう少し詳しくお聞かせいただけますか?」
ネロくんが優しく促す。
女性は再び、考えるように沈黙した。
そして、静かに顔を上げる。
その視線はネロくんではなく、まっすぐ私をとらえていた。
フードの奥で、黄色を帯びた瞳がわずかに光る。
柔らかな影の中で、その色だけが印象的に残った。
私はにこりと微笑み、軽くうなずいた。
やがて、女性は小さな声で隣の侍女を呼ぶ。
「エステル」
「……承知いたしました」
エステルと呼ばれた中年の女性が、鞄の口を開く。
指先の動きは緊張を含みながらも、迷いがない。
やがて、彼女は小さな小瓶を取り出し、それをテーブルの上にそっと置いた。
硝子が触れ合う微かな音が、室内に響く。
「これは?」
「祖母が使っていた……香水です」
その言葉に、胸の奥がかすかに震えた。
瓶の中で淡い光を帯びた液体が揺れ、初夏の陽の反射を受けて煌めく。
まるで──彼女の瞳と同じ色のようだった。
私はそっと小瓶に視線を落とした。
透明な硝子の中には、淡い琥珀色の液体が揺れている。
光を受けてわずかにきらめき、まるでそこに時の記憶が閉じ込められているようだった。
「少し、拝見してもよろしいでしょうか?」
「ええ……どうぞ」
女性の声は、静かに震えていた。
その音の奥に、長い年月を越えた思慕が滲んでいるように感じられた。
私は慎重に小瓶を手に取った。
冷たい硝子が指先に触れる。
キャップを外すと──静寂が訪れた。
……何も、香らない。
思わず首を傾げる。
そっと鼻を寄せるが、やはり何も感じない。
空気は澄んでいるのに、香りだけが抜け落ちていた。
探るように見ていたネロくんに、小瓶を差し出す。
彼も顔を寄せ、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「……たしかに、無香です」
「やはり──だめか」
護衛と思しき青年が、低く息を吐いた。
その声音には、落胆と、わずかな焦りが混じっていた。
女性はその言葉に反応し、フードの奥で指先をきゅっと握りしめる。
彼女の膝の上で、震える手が小さく音を立てた。
私はそっとその動きに気づき、目を細める。
(“やはり”……? ──つまり、以前にも試したことがある?)
ネロくんも同じ疑念を抱いたのか、静かに問いかけた。
「この香水を……ほかの店でも試されたのですか?」
女性は、しばし沈黙したあと、わずかにうなずいた。
「ええ。けれど、どこへ持って行っても、“香らない”と言われてしまうのです」
フードのせいではっきりとは分からないが、
その声音には、諦めのような落胆がにじんでいた。
一方で、エステルさんはそれを隠すこともなく、深く息を吐いた。
「やはり……人間には、難しいことのようですね」
「……人間には?」
思わず、言葉を繰り返してしまった。
エステルさんは小さく息を吸い込み、すぐに口を閉ざす。
フードの奥で、わずかに光が揺れた。
その仕草は──不用意に言葉をこぼしたことを悔いるようにも見えた。
護衛の青年が一歩前に出かけたが、女性がそっと手を上げて制した。
その手つきには、毅然とした力があった。
「……失礼。今のは、少し言葉が過ぎました」
「いえ。お気になさらず」
ネロくんがやわらかく答える。
けれど、その声の奥には、明らかな警戒の色が混じっていた。
私は小瓶を見つめたまま、静かに息を吐く。
“人間には”──その言葉の余韻が、頭の奥で何度も反響していた。
リュミエール商会に来る客は多い。
最近はリズやレーヴェたちの影響もあって、
他種族の者──エルフや獣人──が訪れることも珍しくなくなってきた。
だが、この女性から感じる“気配”は、それらとも違っていた。
澄みきった空気のようで、どこか、現実から半歩ずれている。
おもむろに、女性がフードへ手をやった。
「姫さん!」
護衛の男性が思わず声を上げる。
けれど、女性の動きは止まらなかった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、護衛を安心させるように微笑んだ。
その笑みは、どこまでも穏やかで、凛としていた。
「ちゃんと、すべてお話しましょう。
この方は──ジルティアーナ様には真実をお話すべきだわ」
パサリ、と布の音が落ちた。
フードが外れ、金糸のような髪が光を受けてきらめく。
肩に流れたその髪の隙間から、柔らかな耳が覗いた。
──それは人のものではなかった。
金色の毛並みを持つ、獣の耳。
彼女の髪と同じ、光を宿した黄金色。
私は息をのんだ。
その瞬間、室内の空気がふっと張りつめる。
ネロくんも、静かに立ち上がっていた。




