319.初夏、新たな風
初夏の陽射しがガラス窓をきらきらと照らしていた。
街路樹の葉は鮮やかな緑に輝き、行き交う人々の笑い声が風に乗って商会の奥まで届く。
リュミエール商会の扉を開けると、新作のシャンプーの柑橘の香りと、新しい紙の匂いが混じり合い、初夏らしい軽やかさに包まれていた。
「おはようございます、ティアナ様!」
カウンターの奥からニナちゃんが明るい声を上げる。
彼女は先ほど届いた荷を解いているところで、箱の中には地方産のハーブティーと、今季初の夏用リボンが整然と並んでいた。
「おはよう、ニナちゃん。今日も元気ね」
笑顔を返しながら、リズから今日の予約表を受け取る。
このところ、リュミエール商会は街の人々よりも観光客からの予約が増えていた。
海のあるクリスディアは、ちょうど観光シーズンの真っ最中だ。
収穫祭の準備や観光客向けの新しい試み──やりたいことは山ほどある。
奥からシエルさんが帳簿を片手に現れた。
「ティアナ様、お待たせしました。昨日までの売上報告です。先月より十五パーセントほど上がっておりますわ」
「まあ、それはすごいわね。みんなのおかげね」
従業員たちに目を向けると、みな誇らしげに笑っていた。
……これは、ボーナスも考えなきゃいけないわね。
ふと窓の外に目をやると、街の子どもたちが笑いながら水遊びをしていた。
あの日、母子が歩いていた通りは、今や初夏の風に揺れる花々で彩られている。
変わりゆく街と、変わらずに灯る人の温もり──そのどちらもが、胸の奥を静かに満たしていった。
「さて……今日も忙しくなりそうね」
リュミエール商会の一日は、また新しい季節の光の中で始まろうとしていた。
◇
昼下がりの陽射しが、カウンターの上に淡い金色の帯を落としていた。
昼のピークを過ぎ、店内は穏やかな空気に包まれている。
お客さまの笑い声が遠のき、ガラス瓶の並ぶ棚の間を、静かな風がすり抜けていった。
ネロくんが棚の整理をしていたが、ふと手を止めて入口の方を見た。
私も釣られるようにそちらへ目を向けたとき──扉の鈴が小さく鳴った。
入ってきたのは、三人組の客だった。
女性たちはフードを深くかぶっているため、顔立ちはよく見えない。
けれど、その動きの一つひとつに、どこか洗練された気配がある。
普通の旅人なら、初めての店に入るときはもう少し周囲を見回すものだ。
だが彼女たちは、まるで“ここを知っている”かのような落ち着きを見せていた。
先頭に立つのは若い女性。
その背後には、がっしりした体格の青年と、年長の女性が控えていた。
家族……という感じではない。
立ち位置も、互いの距離の取り方も自然すぎる。どう見ても主従の関係だ。
ネロくんの表情がわずかに引き締まった。
若い女性の所作には隙がない。
立ち方、歩き方、ちょっとした仕草の端々に、
“育ち”と“鍛えられた礼節”が滲んでいる。
(……ただの観光客じゃなさそうね)
私は予約帳を思い浮かべた。
この時間に該当する客の記載はなかったはず。
それなのに、あの中年女性の控えめな動き方は明らかに侍女のそれ。
青年の視線の配り方も、護衛として訓練を受けた者のものだった。
「私がご案内しますね」
と、カウンターから出ようとしたニナちゃん。
通常なら、新人の彼女がいち早く対応するのが決まりだ。
けれど、ネロくんが軽く手を上げてそれを制した。
「接客は俺が出る。……悪いけど、待機しててくれ」
「わかりました」
ニナちゃんが、少し緊張した面持ちで返す。
空気がほんの少し張りつめる。
ネロくんは姿勢を正し、穏やかな笑みを浮かべてカウンターを出た。
「いらっしゃいませ。リュミエール商会へようこそ」
三人組の先頭に立つ若い女性が、ほんの一瞬だけ顔を上げた。
その瞬間、フードの影の奥で、黄色がかった瞳がきらりと光った気がした。
(……あの瞳の色。まさか)
胸の奥で、警戒と好奇心が同時に芽生える。
私は息をひそめながら、カウンター越しにその様子を見守った。
ただの通りすがりではない。
この来訪は、何かの前触れだ。
初夏の光に包まれたリュミエール商会に、
また新しい風が吹こうとしていた。




