311.“美味しい”のその先に
食後のデザートは、ナポルケーキ。
……そう、まるで当然のようにその流れになっていた。
洞窟の中には、甘い香りが満ちている。
焼きたての生地と、煮詰めたナポルの果肉の香りが重なり合い、まるで光そのものが香っているようだった。
切り分けられた瞬間、黄金色の果汁がじんわりと滲み出す。
そのきらめきと、香ばしいパイ生地の層を眺めているだけで、胸の奥が自然と緩んでいく。
『ん~っ! ……やはり、これも絶品ですね!』
聖霊様がひと口食べて、頬に手を当てながらしみじみと言った。
その瞳はほんのり潤んでいて、本気で感動しているのがわかる。
「聖霊様、そんなに感動されるほどですか?」
ステラが思わず笑みを漏らす。
『はい……素材の調和、香りの広がり、そしてこの優しい甘み。まるで森の祝福そのものです!』
「ふふっ、そう言ってもらえると嬉しいですね」
ステラは目を細め、私に柔らかく笑いかけてきた。
私も頷き返し、ナポルケーキをひと口。
ナポルの爽やかな酸味と、ふわりと香るバターの甘い香りが重なり、口の中が幸福で満たされていく。
ステラの足もとでは、ルナが小さく前足を揃えて座っていた。
小皿に分けられたケーキを、ちょこんと前歯でかじっている。
「……ルナにナポルケーキって、大丈夫なのかな?」
思わず口にすると、聖霊様が穏やかに微笑んだ。
『ルナは聖獣ですから、心配いりませんよ。
むしろ、この土地で育ったマナを含む果実と、ティアナの“想い”と魔力が込められたケーキが美味しくないはずがありません』
「私の……魔力が?」
自分の中の“力”がふと反応するように、胸の奥がかすかに震えた。
『料理を作るとき、スキルを使っていましたよね? スキルは使用者の魔力で発動します。
だから、スキルで作られたものには自然と魔力が宿るんです』
なるほど。
いつも“美味しくなりますように”“みんなが笑顔で食べられますように”と願いながら作っていた。
でも、それが本当に“力”として誰かに届いていたなんて、考えたこともなかった。
ルナは満足そうに尻尾を揺らし、ネージュは相変わらず口いっぱいにケーキを頬張っている。
その光景を眺めていると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
ああ……もしかして、あの子たちは、私の想いをちゃんと感じ取ってくれているのかもしれない。
思い出す。ある日、ネージュが言った言葉を。
「オリバーやマイカの料理ももちろん美味しいけど、ティアナの料理がいちばん元気になれるの!」
そのときはただ嬉しくて、「ありがとう」と笑っただけだった。
でも今なら、少しわかる。
“元気になれる”というのは、きっと味だけの話じゃない。
私の中の魔力──いや、“想い”そのものが、誰かの力になっているのだと。
『はぁ~、とっても美味しかったです!』
聖霊様の満足そうな声に、はっと意識を引き戻される。
彼女がルナに『美味しかったですね』と微笑みかけると、ルナはぴょんと跳ねて応えた。
その可愛らしい様子に、自然と口元が緩む。
名残惜しそうに皿を見つめていた聖霊様は、今度はネージュをじっと見つめた。
『こんな美味しいものをいつも食べられるなんて……羨ましいです』
「ふふん。私はティアナの守護獣だもん!」
ネージュは胸を張り、尻尾をぱたんと揺らした。
その得意げな姿に、場の空気がまた少し柔らかくなる。
──そのときだった。
『……私もティアナと契約しようかしら』
ぽつりとこぼれた聖霊様の言葉に、心臓が跳ねた。
えっ、ちょ……また契約!?
しかも今度は森の守り神みたいな存在と!?
勘弁してください……!
心の中で悲鳴を上げる私を見て、聖霊様はころころと笑った。
『冗談ですよ。でもね──本当に、それくらいあなたのことが気に入りました。
あなたの料理には“生”の力がある。マナが息づいている。
だから契約してもいいくらいなんですけれど……すでにあなたにはふたりの聖霊がいますからね』
「ふたりもって……オブシディアンのことも知ってるんですか?」
『ええ、もちろん。
あなたの魔力で成熟し、生まれたネージュが守護獣となるのは、もはや必然。
ですが──あの人間嫌いな“時の聖霊”までが契約するとは、正直、驚きましたよ』
「時の聖霊……やっぱり、オブシディアンって特別なんですか?」
『聖霊たちの間でも、古代の契約者たちの間でも名を知られた存在です。
力を求め、多くの人間が契約を望みました。
けれど彼は、人間を苦手として、すべての関わりを断った──そんな聖霊ですよ』
聖霊様の声は穏やかだったけれど、どこか敬意が混じっていた。
“人間嫌い”と呼ばれながらも、そんな存在が私と契約した。
……どうして、私なんだろう。
料理につられて契約したように見えても、本当は違うのかもしれない。
私の中の魔力が、彼を惹きつけたのだろうか。
それとも、ただの偶然?
目の前で笑うネージュを見ながら、オブシディアンの姿を思い浮かべる。
ネージュはクリスディアに来てから、いつもそばにいてくれる。
けれど、あの“時の聖霊”は──この土地に来てから、気まぐれに現れるだけで、傍にいることのほうが少なくなっていた。




