308.思いが芽吹くとき
「心を込めて“ルナ”という名をくれたこと。
そして、離れていてもルナを忘れずに想い続けた──その気持ちこそが、この子に力を与えたんだよ」
「ステラの想いが……ルナに力を?」
私は思わずネージュの言葉を繰り返した。
するとルナが、ぴょんっと軽やかに跳ねてステラの膝の上に飛び乗る。
まるで「その通り」と言わんばかりに、尻尾をふるふると揺らした。
ステラは驚いたように、赤い瞳を丸くしてルナを見つめる。
そのとき、泉の光の奥から、聖霊様のやわらかな声が静かに響いた。
『私たち──あなたたちが“聖霊”と呼ぶ存在は、
自然界の力と、生命ある者たちの“想い”を糧にして在るのです』
その声音は、水面をなでるように穏やかで、
私もステラも息をのんで耳を傾けた。
『自然に満ちるエネルギーだけでも、命をつなぐことはできます。
ですが──力を振るうには、それだけでは足りません。
生命の想い、祈り、願い……それらが加わることで、
初めて“奇跡”が形を成すのです』
ステラは膝の上のルナをそっと撫でながら、問いかけるように視線を上げた。
「……“想い”が、力になるんですか?」
『ええ』
聖霊様の声が、泉の奥で柔らかく波紋を広げる。
『世界のあらゆるものは、形を持たぬ“想い”によってつながれています。
草木は陽を恋い、風は大地を抱き、
そして人は──誰かを想う心で、自らを超えていく。
それが、命の循環を支える見えない力なのです』
聖霊様の言葉は、光の粒となって水面からこぼれ落ち、
ステラとルナの肩に、そっと降り注いだ。
その光は、まるで祝福のようにあたたかかった。
ネージュが静かに頷く。
「だからこそ、ステラの祈りがルナを導いたんだよ。
名を呼び、想いを伝え続けたことで、ルナの中に眠っていた力が“応えた”んだよ」
ステラは胸に手を当て、息を詰めるように小さく呟いた。
「……私、ただ……ルナがもう、ケガをしたりしないように、祈っていただけなのに……」
『それで十分です』
聖霊様の声が、やさしく重なる。
『誰かを想う願いは、小さな光でも、必ずどこかで届きます。
それがあなたたちを結び、ルナに“生きる力”と“新たなる力”を与えたのです』
「……“新たなる……力”?」
ステラの問いに、泉の光がふわりと揺れた。
淡く漂う光の粒が集まり、やがて水面の上に一輪の花のような輝きを形づくる。
『──はい。
この子の中には、これまで眠っていた“癒し”の力が芽吹きました。
それは、痛みを知り、誰かを想った者だけが持つことのできる光です』
「癒しの……力……」
ステラが小さく息をのむ。
聖霊様の声は続く。
『傷ついた心や命の痛みに寄り添い、
少しずつ、優しく包み込む力。
それは炎のように強くはありませんが──
春の陽だまりのように、静かに世界を変えていくのです』
ルナがステラの腕の中で、ころんと身を丸めた。
小さな角が淡く光を帯び、泉の輝きと呼応するように脈動している。
私は息を呑んだ。
それはまるで、生きている光そのものだった。
『ステラ。
あなたの祈りがこの子の力を目覚めさせたように、
この子の光もまた、あなたの優しさを映しています。
二人の絆は、もはや“奇跡”ではなく──
世界の一部として、確かに息づいているのです』
ステラはその言葉に、そっと瞳を閉じた。
腕の中のルナを抱きしめる彼女の表情は、穏やかだった。
ルナがきゅっ、と小さく鳴き、光の中で尻尾を揺らす。
『“ルナ”は、あなたから与えられた想いと祈りの力によって、
次代の“大樹”となる資格を得ました』
その声は、泉の底から湧き上がるように澄みわたり、まるで未来を照らす鐘の音のように、静かに森へと広がっていった。
「……次代の大樹……?」
私は思わず、聖霊様の言葉を繰り返していた。
あの“湖の大樹”──
森を守り、命を育んでいたが、刈り取られてしまった存在。
その記憶が胸の奥に浮かび上がる。
『大樹とは、森そのものの心。
森に生きる命と想いを結ぶ“核”です。
ルナはまだ幼く、その力のすべてを解き放つには時が必要ですが……
いずれ、この森の新たな光となるでしょう』
聖霊様の声が、やさしく空気を震わせた。
泉の水面が淡く光を帯び、風が静かに木々を揺らす。
「……ルナが、大樹に……?」
ステラがそっとつぶやく。
その腕の中で、ルナはまるで誇らしげに、小さく鳴いた。
私はその光景を見つめながら、胸の奥がじんわりと温かくなっていくのを感じた。
──命は、終わってしまうものではない。
想いがあれば、形を変えて何度でも芽吹く。
そう教えられているようだった。
聖霊様の声が、私の心に静かに触れる。
『ティアナ。
あなたがこの森に運んだ笑顔とぬくもりは、
確かにこの命の循環をつなぎました。
人と森、そして聖霊を再び結び合わせたのは、あなたなのです』
「……わたしが……?」
言葉が喉の奥で震える。
そんな大それたことをした覚えはないのに、
泉の光が、まるでその事実を肯定するように柔らかく包み込んできた。
『あなたのやさしさが、この森の“再生”の芽をもたらしたのです。
それは、奇跡ではなく──選ばれた者の歩む道。
どうかその心を、これからも見失わぬように』
私は、ゆっくりとまぶたを閉じた。
光が瞼の裏で揺れ、胸の奥で何かが静かに芽吹く。
──きっと、ここからまた始まるのだ。
ルナが大樹へと成長する未来も、
人と森が共に息づく世界も。
私はそっと微笑み、泉の光を見上げた。
「……聖霊様。必ず、この森を守ります。
ルナと、ステラと、みんなで──」
その誓いを受け止めるように、泉の光がひときわ強く輝き、
やがて静かに森の奥へと溶けていくようだった。




