307.森に還る祈り
『──あなたの大切な者を、救うことができたのですね』
聖霊の声が静かに響いたあと、泉の光がゆるやかに揺れた。
ステラは胸の前で両手を組み、そっと頷く。
「はい……ルナの角を煎じてエレーネさんに飲ませたら、彼女の瞳に光が戻ったんです」
言葉を紡ぐうちに、ステラの頬を一筋の涙が伝った。
「本当に、ありがとうございました。聖霊さまのおかげです」
ルナが足元に寄り添い、低くやさしい声で鳴いた。
まるで「それでいいんだ」と告げるように。
だが、聖霊はしばし沈黙したのち、やわらかな響きで答えた。
『──私は、何もしていません。
すべては、この子──ルナが、ステラの祈りに応えたいと願った結果です』
「ルナが……?」
ステラが驚いたように見下ろすと、ルナは小さく鳴いて、澄んだ瞳で彼女を見上げた。
『この子は、自ら選びました。
痛みを越えて、誰かを想う心を形に変えることを。
それは、私が与えたものではありません。あなたたちが結んだ“絆”が導いたのです』
聖霊の声は、泉の水面をそっと撫でるように静かだった。
けれど、その言葉の一つひとつが胸の奥まで染み渡っていく。
ステラは両腕でルナを抱き上げ、頬を寄せた。
「……ありがとう、ルナ。あなたがいてくれたから、私は──」
声が途中で詰まり、言葉が続かない。
ルナはそんなステラの頬をぺたりと舐め、尻尾をふるふると揺らした。
その仕草があまりにも自然で、私の頬まで緩んでしまう。
私は一歩前に出て、聖霊へと向き直った。
「……けれど、それでも。聖霊様がこの場所へ導いてくださらなければ、ステラがルナの角を持ち帰ることもなかったはずです」
光がわずかに揺れ、聖霊の“気配”が私のほうへと向く。
「ですから──あなたにも感謝を。
ステラとルナを結ぶ絆を、見守ってくださってありがとうございます」
その言葉を受け止めるように、泉の光がいっそう柔らかく広がった。
聖霊の輪郭が微かに笑みの形を帯びる。
『……あなたの心は澄んでいますね、ティアナ。
私もまた、あなたに感謝しています』
「聖霊様が、私に……ですか?」
思わぬ感謝の言葉に、思わず目を丸くする。
自分が聖霊様からそんなふうに思ってもらえる理由など、まるで心当たりがない。
首をかしげていると、ネージュがそっと口を開いた。
「強い想いや魔力を持つ者の心は、聖霊に影響を与えやすいの。
でも、この森は……湖の大樹を失ってから人々の足が遠のき、聖霊の力も薄れかけていたんだよ」
その言葉に、私は小さく息を呑んだ。
森の大樹──あの光に満ちた存在を失ったことで、森そのものが弱っていた。
それでも今、この泉の光はどこか懐かしい温もりを取り戻している。
聖霊は、静かにその光の中から語りかけてきた。
『ティアナ。
あなたがこの森で人々と共に歩き、再び命の息吹を運んでくれた。
子どもたちの笑い声や、人々の心に森のことを思い出させてくれたことで──
この森は、もう一度息を吹き返したのです』
その声には、確かな感謝の響きがあった。
胸の奥が熱くなり、思わず視線を伏せる。
けれど聖霊の言葉は、そこで終わらなかった。
『そして……ステラ。
あなたがいつもルナを思い、祈り続けたことで、
この子は本来の力を──いいえ、
“ルナ”という名を与えられたことで、
その力を超える光を得たのです』
「……わ、私が……?」
ステラは目を丸くして、腕の中のルナを見つめた。
ルナは、まるでそれを肯定するように、小さく鳴き声を上げる。
「名を……与えたことで、力が?」
私も思わず問い返してしまう。
名が、力になるなんて。
聖霊は、泉の奥でふっと微笑んだように見えた。
『“名”とは、存在を形づくるもの。
あなたがこの子に心からの想いを込めて名を呼び続けたことで、
その名は祝福となり、この子の魂に刻まれたのです。
それは、あなたという人が、この森の光と響き合う証でもあります』
ステラの瞳が、涙の膜を張って揺れた。
ルナはそんな彼女の指をぺろりと舐め、柔らかく尻尾を振る。
まるで、「その名を誇りに思っているよ」と伝えるように。
私はそっと笑みをこぼしながら、その光景を見つめた。
──ステラとルナ。
二人の絆は、祈りと名を通して、静かにひとつの奇跡を生み出したのだ。
その光は、今も泉の底で、やわらかく揺れている。




