306.光の泉
「さあ──洞窟の中へ。
ルナたちに会いに行きましょう!」
私がそう告げると、レーヴェが露骨に顔をしかめた。
「……本気ですか? あの奥は、まだ完全に安全とは言えません。洞窟の魔力の流れも不安定ですし……」
「大丈夫よ。安全面なら、ネージュがいれば心配ないわ」
振り返ると、白銀の毛並みを揺らしてネージュが軽く尻尾を振った。
彼女はいつも通りの落ち着いた顔で、淡い光をまとっている。
その存在だけで、場の空気がすっと澄んでいくようだった。
リズが一歩前に出て、静かに口を開く。
「ネージュ様がいらっしゃれば、危険はないでしょう。
それに……ルナと聖霊様が、ティアナ様たちをお待ちのようですし」
「む……」
レーヴェは腕を組み、何か言いたげに唸ったが、結局は視線をそらして小さくため息をついた。
「……分かりました。できることなら、俺がお守りしたいのですが……」
悔しそうに俯くレーヴェの代わりに、リズがネージュと視線を合わせる。
「ネージュ様、どうかティアナ様とステラのことをよろしくお願いいたします」
「うん、ネージュにまかせてっ!」
ネージュが軽やかに答えると、レーヴェは渋い顔のまま──けれどどこか安心したように頷いた。
彼らの視線に見送られながら、私はステラと共に洞窟の前に立つ。
冷たい風が頬を撫でた。
奥からはかすかに魔力の気配が漂ってくる。
それはどこか懐かしいようで、けれど胸の奥をざわつかせる不思議な感覚だった。
「さあ、行きましょう」
私が足を踏み出すと、ネージュがすっと隣に並ぶ。
ステラが小さく頷き、私の後ろを静かに歩き出した。
淡い光に照らされた洞窟の奥へ──
リズとレーヴェの心配する視線を背に感じながら、私たちはゆっくりと進み始めた。
歩みを進めるごとに、空気が変わっていくのが分かる。
外の風は消え、代わりに洞窟の奥から“呼吸”のようなものを感じた。
壁を伝う水の音が、まるで心臓の鼓動のように規則正しく響く。
「前に来た時と……同じ感じ?」
私が尋ねると、ステラは首を横に振った。
「少し……違います。もっと静かで、優しい気がします」
彼女の言葉に、ネージュが柔らかく尾を揺らした。
「森の気配が変わったのよ。ステラは二度目でしょ? 聖霊があなたを歓迎しているんだね」
ステラの表情に、わずかに安堵が浮かぶ。
彼女にとってこの場所は、ルナと再会し、聖霊から“絆”を授かった大切な場所。
私がこの目でそれを見られる日が来るとは──胸の奥で小さな期待が膨らんでいく。
やがて、目の前に淡い光が差し込み始めた。
それは炎ではなく、水面の反射のようなやわらかな光。
ステラが小さく息を呑み、歩みを止める。
「──着きました。あの泉です」
洞窟の中央には、清らかな水を湛えた泉があった。
天井の割れ目から差し込む光が反射し、壁一面に揺らめく模様を描き出す。
息をするのもためらわれるほど静かで、美しい場所だった。
「……まるで、世界の音が止まったみたいね」
私がそう呟くと、ネージュが小さく笑った。
「ここは“生きている場所”だよ。静かに聞いてみて、ティアナ。森の鼓動が聞こえるはず」
言われるまま目を閉じる。
──たしかに聞こえた。
水の音、風のざわめき、遠くで小さく鳴くルナの声。
それらが溶け合い、まるで一つの歌のように流れている。
「聖霊さま……」
ステラがそっと呼びかけた。
その声に応えるように、泉の上の光がふわりと集まり始める。
淡い光が寄り添い、人のような輪郭を形づくった。
やがて、言葉ではない“響き”が私の胸に届く。
『ようこそ──ステラ。そして、ティアナ』
頭の奥に直接響くその声に、思わず息を呑む。
体の奥まで透き通るような清らかさ。
これが、ステラが出会った聖霊……。
ステラが膝を折り、深く頭を垂れる。
「またお会いできて……嬉しいです」
その瞬間、いつの間にか現れたルナがステラの脚にすり寄り、誇らしげに小さく鳴いた。
『よく来てくれました。そしてティアナ。あなたのことも、森は覚えていますよ』
「……私のことを?」
驚いて問うと、光はやわらかく揺れた。
『あなたの心が、この森に温かな波紋を残しているのです。
人を導き、この街や森を守りたいという想い──それは風と共に届いていました』
胸の奥がじんわりと熱くなる。
まるで、心の奥を優しく撫でられたようだった。
「……光栄です。でも、私なんてまだまだで……」
『いいえ。謙遜は必要ありません。
あなたが人を想い、誰かを信じる限り──森もまた、あなたを信じましょう』
言葉とも祈りともつかぬその響きが、胸に染みていく。
隣で静かに微笑んでいたステラが、そっと口を開いた。
「聖霊さま、そして──ルナ。ありがとうございました」
そう言って頭を下げたステラを、ルナは見上げる。
聖霊の顔は見えないのに、不思議と“笑っている”ことが伝わってきた。
『──あなたの大切な者を、救うことができたのですね』
その言葉に、ステラの目が潤み、私はそっと息をのんだ。
光が泉に揺らめき、ルナの角が淡く輝く。
静謐な光の中で、聖霊の声はさらに穏やかに続いた。
『その想いを、どうか忘れないでください。
絆は形を変えても、決して途切れることはありません──』
私は胸の奥でその言葉を反芻した。
ステラとルナ、そして森を見守る聖霊。
そのすべてが、やさしい光の中でひとつにつながっている気がした。
──この場所は、確かに“生きている”。
そして、私たちの想いもまた、森と共に息づいているのだと。




