305.信頼の証
私は思い出した。
オブシディアンに促されるまま、ネージュと彼に名前を与えたあの時のことを。
──「聖獣に名前を付けるというのは、その者と魔力を通じた契約、すなわち主と守護獣の関係を結ぶことだ」
確かに、彼はそう言った。
私は深く考えもせず、ただ「名付け」を当然のことのように受け入れ、その後に聞かされた重大さに驚いたのを思い出す。
「……そういうことだったのね」
小さくこぼれた私の声に、リズが鋭い視線を向けてきた。
「ティアナ様?」
「……オブシディアンが言っていたでしょう?
名付けはただの呼び名じゃない。聖獣に名前を与えるというのは──契約だと」
リズははっとしたように頷く。
「ルセルの町で、オブシディアン様が仰っていたことですね」
「契約……」
ステラが青ざめた顔で、自分の胸に手を当てる。
「じゃあ、わたし……名前を付けた時点で……ルナの契約者に……?」
「その可能性が高いです」
リズの言葉に、ステラの肩が小さく震えた。
「……そんな……」
赤い瞳が揺れ、呼吸が浅くなる。
想像もしていなかった現実に、心が追いつかない。
レーヴェが腕を組み、険しい顔でうなる。
「名付けるだけで契約が成立するなんて……」
「でも、理には適っています」
リズは静かに首を横に振った。
「名前は存在を定めるもの。与える者と受ける者の間に強い縁が結ばれても、不思議ではありません」
ステラはその言葉に、ぎゅっと唇を噛みしめた。
「でも……私、そんなつもりじゃなかったのに……」
声が震える。
無邪気な気持ちが、とてつもない責任に変わっていく。
彼女の肩が小さく震え、赤い瞳に涙がにじむ。
「まさか契約しちゃったなんて……ごめんね、ルナ……」
堰を切ったように涙が頬を伝う。
その肩へ、虹色の蝶──妖精がそっと舞い降りた。
羽ばたきとともに散る光が、彼女の濡れた頬をやさしく撫でる。
「……あ」
ステラが小さく息を呑む。
「この子……言ってる。『契約は束縛じゃない。約束であり、信頼の証』だって……」
その瞬間、彼女の表情がわずかにほころぶ。
涙の奥に宿る赤い瞳が、少しずつ安堵の色を取り戻していく。
張りつめていた空気が、静かにほどけていった。
ネージュがにっこり笑い、尻尾を揺らす。
「ルナは選んだんだよ。
名付けはね、聖霊が“主”だと認めた人が、名前を付けることで契約が成立するの。
一方的に名前だけ付けようとしても、聖霊が望まなければ成立しない」
「それじゃあ、ルナが私を……?」
「契約が成立したってことは、ルナがそれを望んだってことだよ」
──契約。
それは軽い言葉ではない。
名付けとは、私が思っていた以上に重く、そして大切な意味を持っていたのだ。
「ステラ……ごめんね」
私の口から、自然に言葉がこぼれた。
ステラは潤んだ目を丸くし、驚いたように私を見た。
「ティアナさま?」
「オブシディアンから“名付け”の大切さを聞いていたのに、わたしが『名前を付けてあげたら?』なんて軽い気持ちで言ったせいで……こんなことになっちゃった……」
ステラはゆっくりと首を振った。
その動きは小さかったが、そこには揺るぎない意志が宿っていた。
「違います、ティアナさま」
涙に濡れた声が、震えながらも真っすぐに響く。
「……確かに、あのときティアナさまがそう仰ったことがきっかけでした。
でも──名前を付けると決めたのは、私自身です。
そして、ルナも……それを受け入れてくれたんです」
ステラは両手を胸の前で組み、ルナがいるであろう洞窟の方を見つめた。
その瞳には、もう迷いはなかった。
私は静かにその横顔を見つめた。
さっきまで泣いていた少女が、今はしっかりと自分の言葉で絆を語っている。
その姿に、胸の奥が温かくなる。
──名付けとは、責任であり、絆であり、そして信頼。
その意味を理解し、受け止めようとする彼女の強さに、私は確信した。
「……ステラとルナなら、きっと大丈夫ね」
私がそう告げると、ステラは静かに微笑み、深く頷いた。
その瞬間、私の中の不安も静かに消えていく。
彼女とルナの契約は、偶然ではない。
互いを選び、認め合った──必然の絆なのだ。




