302.祝福と閉ざされた洞窟
翌朝、私たちはまだ薄闇の残る森へと足を踏み入れた。
冷たい夜気が漂い、吐く息は白く揺らめいてはすぐに消える。木々のあいだから洩れる鳥のさえずりさえ、夢の名残のように淡く響いていた。
先頭を歩くレーヴェの背は揺るがず、迷いなく前を見据えている。その後ろに静かな足取りでステラが続き、私とリズは肩を並べて歩いた。
「……湖が、もう見えてきます」
レーヴェの声は、森の深みに落ちる水滴のように静かに響いた。
木々の切れ間から光が差し込み、やがて視界に広がったのは鏡のような水面だった。
梢の隙間から差し込む朝日が湖面をきらめかせる。波が揺れるたび、まるで細かな宝石を散らしたように光が砕け、きらめきを返していた。
見慣れたはずの景色なのに、今日の湖は胸の奥をざわつかせた。
周囲には花々が咲き乱れ、風が撫でるたびに淡い香りを放つ。
「……ここまでは、私たちも知っている景色ですね」
リズが湖面を見渡しながら呟くと、ステラは小さく頷き、さらに奥を指し示した。
「ルナを追って進むうちに、私は洞窟を見つけました」
その言葉は、湖面に落ちた小石のように私の心へ波を広げた。
──秘密が、この水の奥に眠っていたなんて。
ふと、白い蝶がひとひら舞い降りる。
それはやがて群れとなり、私たちを取り囲んだ。普通ならば人を避けるはずの蝶たちが、ここでは風の一部となり、衣の裾や髪へやわらかに触れてくる。まるで湖そのものが私たちを迎えているかのように。
私はそっと手を伸ばす。ひとつの蝶が指先に止まり、羽ばたきがかすかな光を散らした瞬間──。
「わあっ!」
振り返ると、ステラの姿に息を呑む。
彼女の周りには十を超える蝶が降り立ち、淡い輝きがほの白い霧のように漂っていた。
「あら……」
「これは、まるで祝福のようだな」
リズとレーヴェが驚きを洩らす。
蝶に包まれたステラは困ったように眉と長い耳を下げた。
「ひゃ、くすぐったいですっ!」
その愛らしい姿に、張りつめていた空気が一気に和む。
緊張で硬かった表情が、自然な笑みに変わっていった。
やがて、レーヴェが森の奥を見やり、低く告げる。
「では、奥へ進みましょう」
私たちは湖畔を回り込み、彼の示す方角へ足を進めた。
水際の土はやわらかく、踏みしめるたびに水音のような響きを返す。やがて森のざわめきは遠ざかり、鳥の声すらも薄れていく。
そして、木々が途切れた先に──岩肌の奥、闇の裂け目が現れた。
「……あれが」
声が自然に落ちる。
「本当に……洞窟があるなんて」
リズも目を見開いたが、ふと小さく首をかしげた。
「こんなに目立つ場所に……今までダンさんや子どもたちが見つけなかったなんて、不思議ですわね」
その疑問が、胸の奥に冷たいしずくを落とす。
確かに、これまで何度も訪れた湖畔で、こんな存在を誰も口にしたことがなかったのだ。
森と湖の美しさに溶け込んでいながら、その闇は異質で、息を潜めるように沈黙を湛えていた。
まるで永い年月、世界の裏側に隠されてきた秘密が、私たちを待っていたかのように。
胸の奥で高鳴る鼓動を覚えながら、私は洞窟を見据える。
──ここから、何かが始まる。
なぜか、そんな確信めいた予感があった。
「……きゃっ!」
リズの小さな叫びと、澄んだ音のような衝撃が響く。
彼女は洞窟の入口で、自分の手を押さえていた。
「リズっ、大丈夫?」
駆け寄ってその手を取る。
白く長い指は傷一つなく、安堵とともに吐息が漏れた。
「はい、大丈夫です。驚いただけで、痛みはありません」
リズは落ち着いた声でそう告げ、そっと微笑んだ。けれど、その視線は洞窟の奥へと注がれていた。
「やはり……私は入れないようです」
ゆっくりと伸ばした彼女の手は、透明な壁に阻まれるように止まり、光の粒を散らして弾かれた。
レーヴェも試したが、同じように見えない壁に拒まれる。
「……やはり、入れないか」
彼は小さく眉を寄せ、洞窟の奥を見据えた。その声音には、硬い緊張が滲んでいた。
次にステラが一歩前に進み、迷いのない動作で手を差し出す。
その瞬間、淡い揺らぎが広がり、彼女の腕はすっと洞窟の奥へと溶けていった。
「本当に……ステラだけが」
思わず、呟きが漏れる。
私は胸の鼓動を抑えきれず、意を決して手を伸ばした。
──すると。
「えっ!?」
信じられない光景に、目を見張る。
私の腕もまた、洞窟の闇の中へと吸い込まれていたのだ。




