299.夢じゃない現実
食事を終え、片付けを済ませると、部屋の中には静かな安らぎが満ちていた。
ついさきほどまで湯気と笑い声で賑わっていた食卓も落ち着きを取り戻し、子どもたちは満腹のせいか、今にもまぶたが落ちそうだ。
「ふあぁ……」
ルトくんが大きなあくびをし、ネロくんもこっそりと目をこすっている。
「もう休みましょう」
エレーネさんがやさしく声をかけると、二人はこくりとうなずいた。
子ども部屋へ向かおうと立ち上がったそのとき、ルトくんがぴたりと足を止める。
「……お母さん……」
「なぁに?」
柔らかな笑みを浮かべ、母親の顔で見つめるエレーネさん。
ルトくんは彼女のスカートをぎゅっと握りしめた。
「……だいじょうぶだよね? これ、夢じゃないよね?
お母さんが元気になって、父ちゃんの脚が治ったことの方が、夢みたいで……」
確かに──。
命の危機にあった母親が目覚めて元気を取り戻し、父親の失われた脚までもが戻った。
それはまるで奇跡のようで、あまりに現実離れしているからこそ、夢ではないかと不安になるのも無理はなかった。
「ルト」
ロベールさんがしっかりとした足取りで息子の前に立つ。
そして、隣にいたネロくんの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「大丈夫だよ。ほら、俺の脚に触ってみろ」
そう言ってズボンの裾をめくる。そこには、かつて失われていたことが嘘のように、逞しい筋肉を備えた脚があった。
促されるまま、ルトくんは恐る恐る手を伸ばす──。
小さな手が、そっとロベールさんの脚に触れた。
驚きと戸惑いを映していた瞳は、やがてゆっくりと緩んでいく。
「……ほんとに……ある……」
その声は震えていたけれど、確かな安堵がにじんでいた。
ルトくんは何度かぎゅっと掴んでは離し、そして胸の奥から安心したように大きく息を吐いた。
隣で見ていたネロくんも、ほっとしたように目を細める。
「よかったな、ルト」
私はそっと声をかける。ルトくんはこくんとうなずいた。
「……うん。よかった」
二人の頬には眠気と安心が混じり合った、柔らかな表情が浮かんでいた。
「さ、もう休もうか」
エレーネさんがやさしく促すと、ルトくんとネロくんは手を取り合って立ち上がる。
まだ少し名残惜しそうにこちらを振り返ったけれど、次の瞬間には母親の手を握っていた。
「ルトくんが寝るまで、エマをお願いします」
エレーネさんはそう告げると、子ども部屋へと歩き出していった。
三人の背中が部屋の向こうへ消えていく。
私はその姿を見送りながら、胸の奥にじんわりと温かなものが広がっていくのを感じていた。
奇跡のような出来事のあとでも、こうして当たり前のように子どもたちが眠りにつく──。
その日常こそが、何よりの贈り物なのかもしれない。
そう思うと、張りつめていた心がようやくほどけていく気がした。
ふと隣を見ると、ロベールさんが静かに息を吐いていた。
しっかりとした脚を確かめるように拳を握りしめ、その表情には安堵と喜びが入り混じっている。
「……夢じゃない、か」
彼が小さくつぶやいた言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。
私はそっとうなずく。
「ええ。夢じゃありませんよ」
その一言に、ロベールさんは照れくさそうに笑った。
その笑顔を見ていると、こちらまで胸が熱くなる。
彼にとって、この五年間はどれほど長く、苦しかっただろう。
脚を失った痛みと絶望。
そして、大黒柱として家族を守れない苦しみ。
それらをすべて背負ってきたのは、他ならぬ彼自身だ。
「──夢じゃない。
エマが生まれて、エレーネも回復し、お前の脚が戻った。全部、現実のことだっ!」
いつの間にか近くに来ていたダンさんが、そう言うや否やバシンッとロベールさんの肩に強烈な一撃を入れた。
「痛っ! おい、ちょっとは加減を……っ」
抗議しようとしたロベールさんの声が途切れる。
ダンさんは満面の笑みを浮かべていたが、その目には涙が光っていた。
「本当に……よかったな。昨日までは、こんなふうに思い切り叩いたら──お前は倒れてたんだ」
その言葉に、私は思わず壁際へと目をやる。
そこには、長い年月を共にした松葉杖が立てかけられていた。
私と出会ったあの日、彼が初めて手にした杖。
それから今日まで五年近く、ずっとロベールさんを支え続けてきた。
視線を右脚に戻す。
しっかりと地面を踏みしめ、彼の身体を支える脚。
もう……あの杖は必要ない。
役目を果たし、静かにその務めを終えたのだ。
その事実が、ただただ嬉しかった。
胸が熱くなり、思わず唇をかみしめた。




