296.立ち上がる、その瞬間
「……っ……はぁ、はぁ……」
床に崩れ落ちたロベールさんは、しばらく荒い呼吸を繰り返していた。
額には玉のような汗が浮かび、肩が大きく上下している。
私たちは言葉を失い、ただその姿を見守るしかなかった。
だって──そこには、確かに存在しているのだから。
長年失われていたはずの右脚が。
「ロ、ロベール……」
エレーネさんが震える声を上げ、恐る恐る夫の脚へ視線を落とす。
細い指先が小刻みに震えているのが、こちらからでも分かった。
ロベールさんはしばらく膝を抱え込むようにしていたが、やがて意を決したようにゆっくりと足を伸ばした。
布地の下から覗く膝下──そこに、確かに形があった。
「……本当に……あるの……?」
ステラが小さく呟き、赤い瞳を見開いたまま動けずにいる。
淡い光の余韻はすでに消え、残っているのは生々しい現実。
脚は幻なんかじゃない。肉があり、骨があり、血が巡っている。
ロベールさんは震える指で右脚をなぞった。
太腿、膝──そして今まで存在しなかった脛、足首、足の甲。
指先に伝わる確かな感触に、彼の瞳が大きく見開かれた。
「……これは……夢じゃ……」
かすれた声が零れる。
「ロベールさん!」
エレーネさんが声を震わせ、夫にすがりついた。
「まさか、脚が……戻るなんて……!」
声は涙に濡れ、言葉の端が崩れていく。
その光景に胸が熱くなる。
隣に立つリズと目を合わせると、彼女は静かに頷いた。
普段は凛とした横顔が、今はどこか誇らしげで、柔らかな表情に変わっていた。
「……立てるかしら」
リズが小さく呟いた、その瞬間──
ロベールさんははっと目を見開き、震える両手を床についた。
ゆっくりと身体を起こし、駆け寄ったレーヴェに支えられながら膝を立てる。
そして──片足を、もう片方の足を──
「……っ!」
皆が息を呑む。
ロベールさんはよろめきながらも、確かに両足で立っていた。
失ってから数年──十年近くもの間、存在しなかった右脚で。
「……あ……ああ……!」
喉から押し出される声は言葉にならず、ただ震えを帯びていた。
エレーネさんがその肩を抱きしめる。頬を濡らす涙は止まらず、彼女は夫の胸に顔を埋めた。
私は拳を強く握りしめた。
──これは、紛れもなく奇跡だ。
みんなの願いが、確かに形になったのだ。
その時、廊下から複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。
扉が開き、ネロくんとルトくん、その後ろにはダンさんと助産師さんの姿もあった。
エレーネさんはエマちゃんをロベールさんに託し、両手を広げた。
「ルトくん!」
小さな影が飛び込む。
母の腕に抱きしめられた瞬間、子どもの涙が布に染み、温もりが胸いっぱいに広がる。
「お母さん! もう……大丈夫なの……?」
「ええ……心配かけてごめんね。もう大丈夫よ」
母の顔を確かめるように見上げる瞳に、みるみる涙があふれる。
「よかったっ! お母さんが居なくなったら、ぼく……っ」
言葉は嗚咽に遮られ、あとは泣き声しか出なかった。
「怖かったでしょう……でも、もう大丈夫」
エレーネさんはその小さな背を撫で続けた。
「エレーネさん……」
遅れて部屋に入ったネロくんが、涙と笑顔を滲ませながら、母を見つめた。
「本当に……よかった」
「ネロくん……ありがとう」
エレーネさんも微笑み、また目尻を濡らした。
家族の姿に、ダンさんは深く息を吐いた。
「さっきまで命の心配をしてたのに……」
そう言いながら、私にちらりと視線を寄越す。
「どうせまた……ティアナちゃんが非常識なことをやったんだろ?」
「なっ……非常識とは何ですか、それ!」
わざとらしく怒ると、ダンさんは口元を吊り上げた。
軽口の余韻を残したまま、ダンさんの視線は自然とロベールさんへ移る。
そこで彼は息を呑み、目を大きく見開いた。
杖を持たず、両腕でしっかりとエマちゃんを抱く腕。
そして──杖も支えもなく、ロベールさんは自分の脚で立っていた。
いつも脇に挟んでいた杖は、ただ静かにベッドの横に立てかけられているだけだった。
新しく部屋に入ってきた者たちは、その光景に言葉を失った。
沈黙が広がり、ただ信じがたい現実を見つめ続ける。
ロベールさんは確かに、自身の両脚でまっすぐに立っていた──。




