293.願いは奇跡となって
薄暗い寝室には、かすかな息づかいだけが漂っていた。
ベッドに横たわるエレーネさんは、まだ目を閉じたまま。額には玉のような汗が浮かび、その表情は苦しげで、見ているこちらまで息苦しくなるほどだった。
ロベールさんと助産師さんには部屋を出てもらった。片時も離れたくないだろうに……何も聞かず、ただ私たちを信じて扉の向こうに立ってくれている。きっと不安で胸が張り裂けそうに違いない。それでも預けてくれたことに、感謝しかなかった。
「エレーネさん……」
ステラが小さく呼びかけ、ベッドの脇に膝をついた。
彼女の震える手が伸び、冷たくなりかけたエレーネさんの手をぎゅっと握りしめる。小さな掌に込められた切実な想いが、ひしひしと伝わってくる。
私は手にしたガラス瓶を見つめた。
中には、黄金色に輝く薬液。まだほのかに淡い光を放ち、仄かな花の香りが立ちのぼる。光と香りは部屋の空気を静かに変え、ただそこにあるだけで神聖な雰囲気を纏っていた。
──これが最後の希望。
これに賭けるしかない。いや、賭けるのではなく、必ず救い出す。
胸の奥で強くそう言い聞かせる。
「リズ、支えて」
「はい」
リズは静かに頷き、ためらいなく枕元へ回った。彼女の所作は落ち着いていて、私自身もその姿に勇気づけられる。リズの腕に支えられ、エレーネさんの上体がゆっくりと起こされた。ぐったりとした身体は力を失っていたが、それでもどこか、生きようとする気配だけは消えていなかった。
私は唇をきゅっと結び、器を傾ける。
黄金の雫が一滴、また一滴と口元に流れ込む。喉がわずかに動き、確かにそれを飲み下していく。小さな反応に、胸が強く高鳴った。
ステラは胸の前で両手を固く組み、赤い瞳を閉じて祈る。
「……エレーネさん……っ。お願い……ルナ……!」
その声はか細く、けれど痛いほどに真剣で、胸に突き刺さる。
部屋の空気が張り詰めていく。
まるで世界から音が消えたかのように静まり返り、全員の鼓動が重く耳に響くようだった。
──その瞬間。
淡い光がふわりと広がり、エレーネさんの体を包み込んだ。
額の汗は蒸発するように消え、蒼白だった頬にほんのりと血色が戻る。荒れていた呼吸は落ち着きを取り戻し、胸が規則正しく上下し始めた。
「……光ってる……」
リズが思わず息を呑む。彼女の声はかすれ、信じられないものを目にした驚きで震えていた。
ステラは瞳を大きく見開き、涙に揺れる声で叫ぶ。
「エレーネさんっ!」
私も大きく息を吐き、ようやく緊張の糸が切れた。
全身の力が抜け、視界が滲む。堪えていた涙が頬を伝い落ちた。
やがて、エレーネさんのまぶたがわずかに震え、ゆっくりと開く。
焦点の合わない瞳があたりを彷徨い、こちらを見つめようとする。
「……ここは……?」
かすれた声。それでも、その一言を聞けただけで胸の奥が熱くなる。
「エレーネさん!」
ステラが泣き笑いになりながら手を強く握りしめる。
「よかった……本当によかった……!」
「……ステラ……?」
弱々しい声で名前を呼ばれ、ステラの赤い瞳からさらに大粒の涙がこぼれ落ちる。
「はいっ、私です……!」
エレーネさんの唇がかすかに笑みに歪む。
「……心配、かけちゃったね……」
力のない声に、確かな生の証が宿っていた。
リズが胸に手を当て、震える息を吐いた。
「……本当に、戻ってこれたのね……」
「エリザベス様……ご心配おかけして……」
私はベッド脇に膝をつき、そっと声をかける。
「もう喋らないでください。今は休んで……それだけでいいんです」
エレーネさんは瞼を閉じ、ステラの小さな手を弱々しくも確かに握り返した。
その仕草が何よりの答えであり、胸の奥に熱いものが込み上げた。
しばらくして、ステラは名残惜しそうに手を撫でながら囁いた。
「……ルナが……守ってくれたんです」
「……ルナ……? ルナって、あのジャッカロープの……」
エレーネさんは瞼を震わせ、ステラの手を握り返す。
私は深く頷いた。
「ええ。ステラと、ルナと……そして、みんなの願いが繋いでくれた命です」
黄金の雫がもたらした光は静かに消え、寝室は再び静寂に包まれた。
だがその余韻だけが、奇跡が確かに起こったことを物語っていた。
そのとき。
エレーネさんがはっと目を見開き、お腹を押さえた。
「赤ちゃん……! 私の赤ちゃんは!?」
まだぽっこりとしたお腹。けれど出産前とは違う──母としての直感が、彼女を突き動かしていた。
「大丈夫です!」
ステラが即座に顔を上げる。
「赤ちゃんは無事です」
リズが頷き、落ち着いた声で告げた。
「助産師さんが隣の部屋で抱いているわ。安心しなさい」
「……本当に……?」
震える声と潤んだ瞳。必死に縋るその姿に、私は扉の方を見やり、小さく頷いた。
リズが扉を開け放つと、そこには待ちきれず立ち尽くしていたロベールさんと助産師さんがいた。
その腕の中には、ふにゃりと小さな声を上げる赤ん坊。
「エレーネ!」
ロベールさんが駆け込み、妻の顔を覗き込む。
「生きて……生きていてくれた……!」
エレーネさんは必死に手を伸ばし、赤ん坊を見つめる。
「赤ちゃん……私の……」
助産師さんがそっと膝をつき、その命を母の腕に託した。
まだ頼りない体は小さくて軽い。けれど確かな温もりと、小さな鼓動がそこにあった。
「……ああ……」
エレーネさんの瞳から堰を切ったように涙が溢れる。
「ごめんね……でも、会えた……本当によかった……!」
母の声に応えるかのように、赤ん坊がふにゃりと泣いた。
その小さな泣き声が部屋の空気を震わせ、張り詰めていた心を溶かしていく。
ロベールさんは肩を震わせながら妻と子を見守り、ステラは両手で口を押さえて泣きじゃくった。
私はその小さな背を抱き寄せた。
──命は繋がった。願いは叶った。
母と子が寄り添う光景は、言葉を超えて美しく、ただひたすらに尊い奇跡そのものだった。




