287.小さな手の温もり
外の空が白みはじめた頃、小さな寝息を立てていたネロくんが、ふいに目を覚ました。
瞼をこすり、状況を思い出したように肩を強張らせる。
「……エレーネさんは?」
起き抜けの声はかすれていたが、その瞳にははっきりとした焦りが宿っていた。
腕に抱いていたルトくんの体温を確かめ、安心したように息を吐く。
「ルト……」
心配そうに弟の頬へ手を伸ばし、毛布をかけ直す。
「ネロくん、起きたのね」
私が声をかけると、彼はすぐに振り返った。
「ティアナさん……っ! ステラとレーヴェも……来てくれたんだ。ありがとう」
疲れを隠せない顔に、それでも笑みを浮かべる。
ステラは思わず駆け寄り、無言で彼の右手を両手で包み込んだ。
静かな部屋に、小さな声が響く。
「……ごめんなさい。ネロくんはずっと心配してたのに……わたし、『絶対、大丈夫だよ』なんて言っちゃって」
目を見開いたネロくんは、じっとステラを見つめ──やがてフッと笑う。
「……あの言葉に、俺は救われたよ。
こんなことになったけど……ステラのせいじゃない。謝る必要なんてない」
「……っ」
涙をこぼしたステラの頭を、ネロくんがそっと撫でる。
やがて顔を引き締め、真剣な声に変わった。
「それで、エレーネさんは……? 熱は? まだ苦しそうなの?」
矢継ぎ早の問いに、リズが静かに答える。
「容態は良くも悪くも変わっていません。でも……私たちがそばにいるから」
ネロくんは唇を噛み、俯いた。
次の瞬間、ぐっと顔を上げる。
「俺も見てくる」
立ち上がろうとした肩を、ダンさんが押さえた。
「待て。今はロベールが傍にいる。……明け方になって、やっと眠ったんだ」
俯いたネロくんに、私は声をかける。
「オリバーとアンナがね、おにぎりとか、すぐ食べられる朝ごはんを用意してくれたの。みんなで食べよ」
「俺は……」
食欲がないと告げようとしたその言葉を、ダンさんが遮った。
「食いたくなくても食っとけ。食わなきゃおまえらまで倒れる。
そんなことになったら……エレーネが悲しむぞ」
そのとき、寝室の扉が静かに開いた。
現れたのはロベールさんだった。
足取りは重く、目の下には深い影が刻まれている。
「……ロベールさん」
リズが声をかけると、彼は小さく頷いて居間へ入ってきた。
ネロくんが勢いよく立ち上がる。
「父さん! エレーネさんは……?」
ロベールさんは目を伏せ、低く答える。
「……容態は変わらない。熱もまだ高い」
居間に重い空気が落ちる。
それでも彼は無理に笑みを作り、ネロくんの頭を撫でた。
「大丈夫だ。……エレーネは強い」
その声には自分に言い聞かせるような震えが混じっていた。
ネロくんは唇を噛みしめ、父をまっすぐに見上げる。
「俺……エレーネさんのこと、ちゃんと守れるかな」
掠れた声に、ロベールさんは静かに肩を抱き寄せた。
「守るのは俺の役目だ。
けれど……お前の想いは、あいつにとって何よりの力になる。ルトのことも……ありがとうな」
ネロくんは目を潤ませ、小さく頷いた。
ステラが涙を拭いながら囁く。
「……ロベールさんも、少しは休んでください」
「……ああ」
返事はしたが、その声音にはまだ決意の色が濃かった。
やがてロベールさんは、リズの腕に抱かれた赤ん坊へと視線を落とした。
その小さな顔を見つめ、唇を震わせる。
「……ごめんな。必死に生まれてきてくれたのに、お前の誕生を心から喜べなかった」
そう言いながら、そっとその小さな手に触れる。
赤ん坊はきゅっと彼の指を握った。
「……っ」
その肩がわずかに震えている。
リズが赤ん坊を差し出すと、ロベールさんは宝物を抱くように受け取った。
「エマ……君の名前は、エマだよ」
かすれる声で囁く。
「お母さんと何度も候補を出して、最後は顔を見て決めようって話していたんだ」
眠る赤子の頬がほんのり赤らみ、安らかな寝息聞こえる。
その温もりに包まれ、居間にいた誰もが胸の奥で静かに息をついた。
私は胸の奥で、そっと願う。
──どうか、この灯火が消えることなく、明日へと続きますように。
白みゆく窓の外に、かすかな光が差し込んでいた。




